ことわざ
人生での”換金され得ないもの”を考えると、プライスレス領域のベースは自分、次に家族、続いて友人恋人もろもろの人間関係である。といっても自身以外は基本的に他者で制御不能である。それでは市井の人が換金されない領域を能動的に手にするためにできることは?と考えたときに、大げさではなく創作以外のことがあまり思いつかない。
甘んじてこれは前提にする。そうではないといういくつかの理由を日常語で書くことも可能だが冗長だし、なんといっても今風でない。自分は自分がモダンであることを課している。モダンであるという在り方自体、自分で決める必要があるし、モダンであることの正解は今決まらないがそのあいまいさを背負うべきである。
さて、引用元にもあるように創作という行為自体は定義をすると特に特別な行為ではなく、それでもモチベーションを問題にする気配がいつもあるのは問題の建付けが悪いというべきだろう。端的に言って作ったものは作った後手から離れ、それを権威的な何かに評価されるというプロセスは源泉としては図工としか言いようがないが別にそうではなく創作はあっていいはずである。わざわざ言葉を尽くして大衆のリアクションとか、ましてやいいねみたいな話をするのは「今風ではない」ので省略する。建設的なのはそうではない在り方を示すことであり、それは「個人的かつ壮大な試み」が達成されることをメタ的に認識されることで取って代わられる。今までの自分はこの段階で禁欲的たろうとするきらいがあり、実際個人的には禁欲的であることのほうが徳が高いのだが、ことわざとしてはそうではないいでたちをみずからもとめたいと感じていることを冷静に受け止められるようになった。一連の書き言葉を書こうと思えたこと自体も、それが禁欲的でない形で、つまり相応のカタルシスがあるような、「個人的で壮大な試み」を手続き的に定義でき、その成果を客観的に観測できるという「ヒトスジノヒカリ」が見えたからである。
当然そのように人間(この言葉をジンカンと読ませる工夫はこのメモサービスには実装されていない。フリガナがもっとも簡単な実装方法だが、行間にフリガナをいれるという行為がインターネットに存在するべきだと考えた人間がいないとは考えにくい)に頼らない認識はハードルが高く、「試み」自体が「壮大」であるという自信がどこから湧くのかという問題は歴史を知ることによって解決される以外にない。その試みは巨人の肩に十分に乗っており、巨人が路頭に迷った道しるべとして「わたし」が灯りをともしているのだと信じ切ることによってのみ解決される。「君、君。それは勉強過多であり、バイパス的に大衆のリアクションを使うことで進化を早めたはずでは」といわれても。
ことわざはそれを定式化した「彼ら」のタスク感は反映していない。彼らは物を運ぶという至極単純なタスクに関して物に対して小さなものを使った運搬を試みており、大きな道具があればいかなる目的物にも対処できたと考えたかもしれない。しかし。