「推し」の発生と「信じる」ことができない日本人
好きと言えない人が増えている。
好きなことなどない、という人が増えている。
何かを「好きになる」ことができない背景には、「好き」のヒエラルキー構造があるのではないか。
好きのヒエラルキーから逃げ出したい、ちいかわたちが作り出した新たな分野、それが「推し」フィールドである。
何かを嫌いであるときに、そこには明確に価値判断の基準がある。であれば、嫌いなもの以外は好きなのか? それは違う。「好き」にはある種のグラデーションがあるだろう。どれくらいの時間を使っているか、どれだけの時間を使っているのか、そんな定量化された指標を用いて私たちは「好きのグラデーション」を可視化しようとする。 この可視化は、確かに「自分が最も時間を使っていること、お金を使っていること」を明確にして、その人たち同士で結びつきを強められるようになる。
好きであることに理由があると考えている人は、「私と似ていたから応援したかった」とか「顔が可愛いから」とかって言う。じゃあ、「なんであなたと似ているからと言って、応援したくなるのですか?」と聞いても意味がないし、本人もわからない。なぜなら、好きに根拠はないからだ。
「好き」は元々移ろいやすい性格を持っている。
なのに、だからそこ、何かをずっと好きでいつづけるには、信仰心が試される。
根拠のないもの、実態のない「好き」という気持ちを信じ続ける必要がある。
じゃあ、何かを好きになるってのは、どういう状態か。
どんなものを好きになるのかは人によって全く異なるから、何かを好きなるとき、なった時の「振る舞い」しかわかることはできない。真理の振る舞いについてしかわからないのと同じだ。 何かを好きなることと、何かを信じることは似ている。
何かを信じるときに、そこに理由や根拠はあるだろうか。
何かを好きにるときに、そこに理由や根拠はあるだろうか。
何かを信じるときに、その信仰心に実態はあるだろうか。
何かを好きになるときに、その気持ちに実態はあるだろうか。
きっと、これまでの長い歴史の中でこんなような議論はどこかにあったのだろう。
だからこそ、俺は宗教という長い時間にたえてきたものの中に、「好き」と同じ構造を見出したい。
好きであることと、信仰心は決定的に「移ろいやすいかどうか」の点で違いがあるはずだ。
歴史に耐えてきた多くの宗教の中でも、一神教は特にこの点で全くもって異なる。移ろいやすさなど存在しない。
なのに!宗教は解釈をめぐって対立していく。
信仰心も移ろいやすいのだろうか。
何かを信仰できる人、そしてその対象を信仰すると決めたその自分を信じ切れること
何かを好きであると言えるようになるためには、この経験が必要である。
SNSの台頭とメディアの発達は、好きのヒエラルキーをまざまざと見せつけてしまうようになった。 「私は本当にこれを好きなんだろうか」
こんな声を聴くようになったのはいつからなんだろう?
何かを好きになった、その瞬間の心の動きだけは誰にも侵すことのできない不可侵の領域であるべきだ。
「好き」が画一化されることの真に恐るべきことは、好きの「対象」が画一化されることではなく、むしろ「好きかもしれないと思ったその瞬間の心の動き」を侵されることである。
あまりにも今の世界は釣りが多すぎる。
何かを好きなるように、心動かされるように、無数の釣り針が、仕掛けが施されている。
好き、は肉体的な反応である。そこをハックされてしまっては堪らない。
必要なのは距離感と、バランスである。
でも、20代の前半のうちは、「これなら騙されてもいい」と思えるものに、戻ることができるものに突き進むべきだ。
騙されてもいいと納得できるか、騙されたことに気づいた後に、立て直すことができるか。
そのゲゼルシャフトを片手間で触りながら、20代のうちはちょっと体重をかけながら、そこで「騙されてもいい」と思える何かに出会えるかどうかが、最も重要である。
信じることは、何かを信じないこととセットである。
何かを信じ切ることができる人を見て、自分と比較して、「私はこれを好きではない/信じていない」と思うこととは、もしかすると正常な反応なのかもしれない。
そのリスクを負うことなく、何かを好きであると言いたい人々が生み出した領域、それこそが「推し」である。