読むが変わる
iPad発売をめぐる狂騒のなか「ひとり一メディアの時代」といった戯言が飛び交っていた状況への反発を込めてつくった記事だった。「書き手中心」「編集者の仕事」といったあたりにことさらフォーカスしているのは「メディアの仕事をナメんな」という思いの表れだろう。素人が素人なりにやることには当然ながら無理も限界もある。それを知りながら「ひとり一メディア」とやらを称揚した挙句の「ポスト・トゥルース」だろうよ、といまになってあげつらうのは簡単だが、一方でここで紹介したサービスがその後そこまで活躍したという話も聞かないのも事実で、彼らに感化され『WIRED』(コンデナスト・ジャパン)でも「シングル・ストーリーズ」というラインをローンチしたが、大きなインパクトは残せぬままたち消えにしてしまった。 『WIRED』US版のアプリが、iPadの登場とタイミングを合わせて同時にリリースされたときのことを思い出す。ウェブサイトにアップされたプロモーション映像のなかで、編集長のクリス・アンダーソンが「電子版の登場によって、新しいストーリーの語り方が可能になるのです」と言っていた記憶がある。「ストーリーテリング」あるいは「ナラティブ」ということばを彼は使ったかもしれない。いずれにせよ、その「ストーリー」ということばが強く印象に残った。そうか雑誌っていうのは物語を語るものだったのか。改めて思った。 (略yo3.icon)
文章でストーリーを読むこと。電子だろうが紙だろうが海外雑誌の魅力はいまなおここにある。アプリのインターフェースやインタラクティブな機能がいくらカッコよくても雑誌を買い続ける動機にはならない。あるストーリーを「読む」価値があると思うからお金を払うのだ。少なくともぼくはそうだ。
面白いテキストに出会う満足感は、動画や音を通して得られるそれとは全く異なる。「聴く」や「観る」と比べて「読む」というのは際立って能動的な行為だ。そして、ときに、それはスピードという点においても動画や音を凌駕する。1時間のインタビューを理解するのに、「観る」のと「読む」のではどっちが速いかを考えてみればいい。いまだに多くのメリットをもっている。 読むが変わる