[エッセイ]牛がいた頃(大阪交野編)
2023年6月11日(日)
郡津はコウヅと読む。同じ京阪沿線の京都八幡に実家があるにもかかわらず、京阪電車の私市線で初めて降りた。大阪府交野市にある駅名だ。六月は梅雨の真っ最中で、低気圧が頭に不愉快な鈍痛を響かせる。若干の吐き気をまとう様な具合で体調が悪い。不安定な体で歩いている道に、小雨は降っている様で降らないでいる。田んぼと住宅地が混ざる大通りの道をまっすぐ進む。昔は住宅よりももっと田んぼの方が多かったそうだ。 交野の田んぼには、ほぼ植え付けが終わった小さい苗が並ぶ田んぼの一角に、植え残しのような苗の塊が置かれている。田んぼの端の方は、機械が入らず植えにくい。そういった場所では人が手で苗を植える。苗の塊はそのためのものだ。
歴史資料館と図書館のある文化ゾーン近くの名物のたこ焼き屋さんは臨時休業だった。
交野の歴史資料館がある建物は正式には教育文化会館という名称で、二階の展示室には寄贈された古い農機具が展示されていた。農機具に掲げられた看板には、牛の絵と一緒に「耕す」という字が書いてある。展示されていたのは耕運機、砕石機や犂などだ。昔、農耕牛で田んぼを耕していた時に使われていた農機具で、農耕牛がいなくなったために不要になったものが、この資料館に寄贈された。
館長さんにこの農機具について質問してみると、民具を所蔵するとき、持ち主へインタビューをしている場合があるという。寄贈物は資料「交野市の民具資料収蔵目録 第二集 農耕用具編」に整理されていて、P11−12に記載している「馬鍬、砕土機、培土機、唐鋤」あたりが対象だろう。それについては、その日は不在の学芸員の方が詳しいので、メールで改めて問い合わせをする様に伝えられる。
一階の事務室の前に郷土資料が置いてある。評判が良いという『交野市史 民俗編』は、紙面の構成が見易い。例えば「農耕」という民俗の項目がまずあり、それが小学校区ごとに分かれた採取結果が記載されている。地域ごと民俗の比較が容易だ。
補助線:荘園
市史に頻繁に八幡の地名が登場するので尋ねると、交野はかつて八幡の荘園だったことを知る。石清水八幡宮の放生会の祭りには今も交野の人が参列したりしているらしい。夜中真っ暗な時分から人が行列をなす放生会は、一度行ったことがある。荘園とは8世紀以降、寺や貴族の領有支配地で米を税収とする。交野で収穫した米は八幡に納められていたものもあるということだ。農奴という言葉は強い。土地同士はさまざまな繋がりをみせるけれど、友好的な関係で成り立っている場合もあれば、支配関係・権力関係で成り立っている場合もある。関係をつなぐ大きな要素の一つに食はあり、それはもしかすると昔の方がより判りやすく、強かったのかもしれない。だけどその権力関係は、どの時代でも国内でも海外でも現在でも存在する。 補助線:河内木綿
その日、教育文化会館で行われていた「かたの機織り教室 20周年記念展―棉づくり・紡ぐ・織る」の展示の最終日だった。綿花を栽培し、綿を採り、紡いで糸にし、織り機で自然の染料で染められた糸が、長方形に織られて反物になる。会館では機織機の実演ワークショップが行われており、隣の図書館の建物では教室の人たちが作った作品が展示されていた。縦と横で織りなされるシンプルな要素の中にデザインのバリエーションがある。綿の染色は大学で勉強をしている人もいるという。反物の一つを触らせてもらうと、しっかりとしながら風合いが良い。普段は着ているという着物も展示されている。実用性を兼ねた着物はより豊かさを増しているように思う。 背景にあるのは河内木綿だ。交野でも綿花は栽培されているけれど、八尾の方が綿花の生産量は多い。かつて江戸時代(1600年頃〜)から明治時代初期にかけて、東大阪は木綿の栽培が盛んだった。多くは大阪の市場で売られて農家の副収入になり、手元に残った綿で自分たちが使う河内木綿を作った。大阪平野を南北に流れる大和川は氾濫が多くよく洪水をおこしたため、1704年に付け替えられて淀川から大阪湾へ流れるようになったのがきっかけで、それと同時に新しく広大な農地が誕生した。新田は低湿地で水田には向かず、綿花を作るようになる。綿花栽培には肥料が多く必要で、連作をするとだんだんと土地がやせていくけれど、江戸時代の北前船で北海道から大阪に入ってくる大量のニシンが窒素肥料となって、綿花栽培には重宝された。農作物には土地の性質や歴史、物流事情も現れる。 明治20(1887)年頃になり機械化が進むと、繊維が短く糸が太い河内の綿花は機械作業に適さず、染料も徳島名産の天然の藍ではなく化学染料が導入され、海外の安価な綿花の関税が撤廃され、産業としての河内木綿は明治30年代(1897)年代に終焉を迎える。 交野は他にも織物にゆかりのある地で、織物神社がある。七夕伝説のもう一つの主役、牽牛は牛飼いの名前だけど、枚方には第二次世界大戦後(1945)まもなくに名付けられた牽牛石がある。人名である牽牛と名付けられた牛みたいな巨石は、昭和の町おこし気味な話のようだ。 【参考】
2023年6月16日(金)
メールを送っていた交野の教育文化会館から返事が来る。農機具の寄贈時の聞き取り記録は得られなかった。また、『交野市史 民俗編』刊行時の1981年頃にはすでに農耕牛は見られないという。だけどありがたいことに、その『交野市史 民俗編』に記載された農耕牛に関連する抜粋をご送付頂く。「いずれの記載からも農家の生活の中で牛が家族のように大事にされていたことが窺えるのではないかと思います。」と添えられる。以下、抜粋である。
5頁~ 正月の行事
倉治 「おおつもごり」(大晦日)の晩から機物神社の庭で大火を焚き、これを三日まで続ける。除夜の鐘が鳴り終わると、袴をつけた氏子の代表が、拝殿で氏子の参拝を待った。拝殿には、ごまめ・昆布・箸が用意してあり、氏子が参拝してこれを頂いた。そのとき、箸は家族数より一膳多く頂く。それは牛の分が中に含まれているのだという。氏子かお宮の庭に近づくと、どこからともなく砂の雨が降った。これは子どもたちがしていた砂かけという行事で、昭和二十三年ごろまで続いていた。この砂にかかると罪汚れが洗い流されるといって、小言が出なかった。帰りには、大火の小火を持ち帰り雑煮の種火にした。
9頁~ 牛まわし(一月三日)
倉治(神宮寺)交野山への登り口の南側の畑(坊領の南)に大きな石がある。これを村では「牛まわし石」と呼んでいる。三日になると、各農家で飼っている農耕用の牛をここへ連れてきて、今年もまた一年、牛が健康でよく働けますようにと祈って、この石の周りを何度も回した。 38頁~ 春の行事
私部 各町の辻や、道筋に提灯台を立て、氏神に献燈する。お湯をまき散らすときに使った笹を牛に食べさせると、牛が病気をしないといって、取り合いになった。しかし、今はもう牛を飼うところもなく笹も不要になってしまった。
※寺地区でも同様の行事があったとの記載あり。
40頁~ 夏・盆の行事 半夏生(七月二日ごろ)
郡津・私部・森・星田では、この日までに植付けを完了しないと収種は半毛宰作)になるという。また、郡津・倉治・星田では、この日に胡麻を播くといかんといった。住吉神社(私部)ではこの日お湯が上がった。どの地区でも、新婚の夫婦を里に呼んだが、婿の方は泊らなかった。この日は蛸を食べさせた。私部では「半夏蛸の婿殺し」という。それほど美味しいという意味だろうか。なお、この日に蛸を食べるのは、苗の根が土によく吸いつくからだともいわれている。 このころは「半夏の大糞流し」といって、大雨が降るので、下(大利・池田・対馬江あたり、今の寝屋川市)から私市や寺のような山裾の村に牛を預けにきた(第二章「稲作の一年」参照)。 108頁~ 収穫とその前後
寺 九月十五日ごろから秋祭りの十五日ごろまで。仲の良い者などが集まって、ランプの明りで藁草・履・牛くつ(牛の足にはかせるもの)・縄縄ないなどの仕事をした。
576頁~ その他の交野ことば
どうみず 牛に飲ませる水で、米のとぎ汁を炊いて糠をまぜたもので、約一斗程一度にどっと与えることから、このように言ったものと思われる。
引用:『交野市史民俗編』(交野市史編纂委員会、交野市、1981)
生き生きとした農耕牛と交野の人の季節ごとの暮らしの様子に、これら交野の農耕牛がどこから来たのかがまた気になる。そのままつらつらと交野の農耕牛についてインターネットで調べていると、大阪の天王寺にあった牛市とその博労の話が載った上下二部ある長い論文が出てくる。牛市を牛耳った人の話。牛市の独占の話は、同時にこの頃他にも綿花や油など他の商品物流に対する市場統制があったことにも関わるようだ。それには幕政が大きく関与する。 農耕牛は博労が連れてくる以外にも、牛市で手に入れる方法がどうやらあったらしい。
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大阪交野の水田風景
https://gyazo.com/6bd677e68d326d10fdf47c5a4265a39b
教育文化会館にあった牛の看板と寄贈された鋤
https://gyazo.com/a4fe4c4dc29dd9ab90d788b78fd3b325
かたの機織り教室 20周年記念展の展示風景
野咲タラ