[エッセイ]まだ見ぬ農耕牛の写真を探すために
江戸時代に兵庫県中北部の養父にある市場を出発点として但馬牛の流通ルートが出来たとの記述があり、掲載されている地図を見ると、ルートには花脊がきちんと経由していることにさらに驚く。牛、つまり子牛を連れた旅である。但馬の博労が花脊にやって来て三年毎に子牛を交換する習慣は「入厩」という。即戦力となる農耕牛にするためにあらかじめ農耕教育を訓練されるように育成された子牛が、三年経つと再び博労に買い戻される。同様の習慣について和歌山の例が挙げられており、子牛を作土の浅い土地で慣らして体格を作り、成牛となってからは作土が深くてより頑丈な牛が必要な地方、例えば松阪などへ導入したということが紹介されている。土地ごとに農耕牛に適する牛の年齢というものがあるのかもしれない。 農耕牛が写る写真は活躍した時代から大抵どれもモノクロである。それらの写真をよく見てみると、牛の大きさが気になってくる。岡山新見市の牛市の写真に写る賑わった牛たちは、よくみるとどれも小柄で子牛である。一方で、京都田辺の水田を耕している最中を写した大きくて立派な牛の写真もある。 写真に写る農耕牛が、どうしてそこにいて・どこから来て・いつまでいて・どのような暮らしをしているのか。農耕牛の視点を置くことで、人の暮らしと土地の違いがわかるのではないか、くらいに思っていたけれど、解像度または彩度を上げて見てみると、写真にはもっと詳細な農耕牛の事情が一緒に写っているのかもしれない。
しかしこれはどうやら、気に掛かる牛の写真の数が増えてしまったということでもある。最初のZINE『牛冷す川で泳ぐ魚の話』はきっかけとなった写真が1枚だけだった。今回の再調査では、これから何枚の農耕牛の写真を見ることになるのだろうか。
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野咲タラ