「ユーザー」は存在しない
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...少なくとも、認知的負荷を下げ、美的価値を高めた商品とその広告によって、不要な欲望を喚起し、不要な消費を促進する主体としてのユーザーを奉るのは、もうそろそろおしまいにするべきだと思う。そもそも「ユーザー」など、実はどこにも存在していなかったのだから。
DIYの思想の大きな特徴といえるのが、そこに消費者、そして「ユーザー」なるものが「存在していない」ということである。
「ユーザー」は、Apple社やドナルド・ノーマンのような認知工学の研究者が80年代に提唱した「ユーザー中心設計」のように、エンジニアやデザイナー特有の楽天主義的なHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)の世界で、「インターフェイス」と共に重要な役割を果たしてきた概念である[4]。ここでのユーザーは、文字通り与えられた機器やツールを使用する人、という意味だけでなく、デザインの優劣を判断する「認知的エージェント」という意味も持っていた。
HCIという分野に限らず、こうした人間科学、社会科学的な言説には、そのコミュニティーにおける制度化されたレトリックというものが、必ず含まれている。「ユーザー」(さらに最終的に使う人であることを強調した「エンドユーザー(末端消費者)」)という概念も、自然物のようにHCIの研究対象として最初から含まれていたものではなく、研究者のコミュニティーが人工的に作り上げたものである。HCIのコミュニティにおいて、それまでの「オペレータ」や「プログラマー」に代わって「ユーザー」という概念が必要となった大きな理由は、その学問対象が、商品を購入してくれる消費者であり、さらにその消費者を「エンパワーする(力を与える)」という、一見倫理的で道徳的に聞こえるが、実は凡庸なレトリックを用いたかったからである。
パーソナル・コンピュータの販売の際によく用いられる、この「ユーザーに力を与える(Empowering Users)」[5]という物言いは、「エンパワーメントによる進歩は善である」という、リベラルでヒューマニズム的な価値観に根ざしたものとされている。しかし、Apple社のような典型的なコンピュータ企業における、より支配的なレトリックは、生産性を向上し、社会を変革する力を持つ(という幻想をユーザーに与える)技術開発を賞賛することである。逆に、その商品を末端で実行するユーザーに対する配慮が足りず、満足度が低くなると、ユーザーが怒ったり、怖がったり、欲求不満になり、せっかくの幻想が消えてしまう(ことで消費されなくなる)ので、それは避けなければならない。
ユーザーに「力を与える」というレトリックは、それ自体が勝ち組、負け組のようなパワーゲーム的な価値観を含んでいる。力を与えられた人は、自由になることもあるが、それよりもむしろ権威的になりがちで、コンピュータによって「エンパワーされた進歩人は優れている(使いこなしていない人は劣っている)」というエリート主義や優生思想にも陥りやすい。また、商業主義の世界では当たり前のことであるが、こうしたレトリックは商品をより多く販売するためのものであり、それが目指す未来は、(すでに多くの商品を販売している企業にとっては)現在と変わりなく、自社の商品がたくさん売れ続けている「同じ」社会でもある。消費者としてのユーザーは、企業から見れば、商品をたくさん購入してくれる(そして廃棄する)社会を実現するために必要不可欠な、生産性の高い道具である、といういいかたもできるだろう。
また、ユーザーに力を与えるとされている今日の情報機器商品の多くは、使いやすくて美しい、という幻想を振り撒きながら、修理したり改造して末長く使い続けようと思ったときには、ユーザーがその内部にアクセスすることをますます拒むようなものになっている。代わりにアクセスされているのは、ユーザーの個人情報である。ツールへのアクセスは、いつのまにかユーザーへのアクセスに取って代わられてしまった。