思考の解像度、行動の解像度
このあたりを読んでいて解像度という軸であれこれ整理できそうだな〜と思ったので書いてみる。 例えば足腰ではなく大腿四頭筋、ハムストリングス、中臀筋など分けて会話するのが当たり前の集団では、これらの役割を分けて説明しなければ会話についていけない。結果これらの筋の動きや役割を理解していく。
たしかに、解像度が「足腰」までで止まっていたら、より詳細まで踏み込んだ戦略を組み立てることができない。 自分のお仕事の領域で考えてみる。たとえば「このモバイルアプリ、なんか重い」といった解像度が低い状態から出発して。まず「重い」とはどういう状態なのかをもっと解像度を上げて把握したい。場合によっては、モバイルアプリをクライアントとして「クライアントサイドの問題か、サーバサイドの問題か」と切り分けていくだろう。その先には「サーバサイドの問題」にズームアップして「サーバサイドの、どこ?アプリケーションロジック?データベース?」「サーバサイドの、なに?パフォーマンス?不安定さ?」等のさらなる解像度アップをはかるだろう。
問題を具体的に解決するには、思考の解像度を一定以上まで高めて臨まなければならない。自分が「これ以上、解像度を上げられない」地点に到達してしまったなら、そこから先は当てずっぽうで手を打つしかない。 不幸な出来事が起きた時には、私たちは「もっと気をつけるべきだった」と感じます。いつも感じるのです。だから、ある場面で「もっと気をつけるべきだった」と言っても、問題改善にはほとんど役立たないのです。
「気をつける」は行動の解像度が低いのだ、とぼくは捉えた。なので解像度を高めようと思ったら「具体的になにをどうするんですか?」と問うていくことになるのだろう。ふりかえり会の進行のお手伝いをしていると「次はもっと気をつける」といった、いわゆる精神論がアクションの案として出てくるのをちょいちょい見かける。そのたびに、チームの行動の解像度が高まるように働きかけるようにしている。解像度の高い行動の案を出すためには、問題の本質を捉えるために思考の解像度を高めることになる。 思考の解像度を高め、それを高解像度の行動によって示すことで、周囲に「この人は、ちゃんと解像度を上げて取り組もうとしているな」と安心を与えることができるのではないか。