めっちゃ楽しそうにサッカーをする下手なおっさん
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もともと下記のページたちに上記記事へのリンクがはってあって、これはもうページに格上げした方がよかろう!と思った。
僕は、日本に一番足りていないのは、「めっちゃ楽しそうにサッカーをする、死ぬほどサッカーが下手なおっさん」だと思っています。
それはサッカーがプレーするに足らない、魅力のないスポーツだからではなく、熱中していた時にあった序列的な空気構造がサッカーを「つまらなく」感じさせてしまったからではないでしょうか。「サッカーと自分の蜜月関係」の間に、上手くいかない、嘲笑される、誰かにジャッジされる、という横槍がザクザクと入り込んで、サッカーを「誰かより劣っていた記憶」として、あるいは「自らを序列に当てはめた記憶」として刻んでしまう。好きで始めたサッカーが、ヒエラルキーの象徴に化けてしまう。
欧州で見てきたのは、(日本的な物差しで見れば)目も当てられないようなレベルのおっさんたちが、真剣に勝利を(そしてその先のビールを)目指して、週末に、仕事終わりに、ガチャガチャとサッカーをする姿です。
そして何より重要なのは、その姿を育成年代の子どもたちが見ることです。サッカークラブは、地域は、そうしたおっさんたちにグラウンドを提供し、それを目の当たりにすることで、子どもたちはサッカーが上位総取りの序列的なスポーツではないことを理解します。サッカー、自分、自分より上手い/下手な人たち、それを上からジャッジする誰か、という序列構造から、サッカーと自分の蜜月関係を取り戻す方法を知ります。
本来サッカーをすることには誰の許可証も必要ありません。自分で自分に許可を出すだけです。しかし恥の文化においては、自分に許可を出すハードルがいちばん高い。一度サッカーが始まったら、戦うべきは「恥」ではなく目の前の相手であり、追いかけるべきは「昔の自分」ではなく目の前を転がるボールです。悔しくて呻いたり、嬉しくて思わず叫んでしまうような瞬間を、サッカーは(スポーツは)極めて自然な形で提供してくれます。
年の瀬になりました。ボール、蹴りませんか?