「主観」や「再現しないもの」に着目していく
とある番組を視聴していたら「フォロワー 2 万人の◯◯さんです〜!」という形でゲストが紹介されていて、ぼくの体調が悪かったせいもあるのか、なんだかとても悲しくなってしまった。
ビジネスの現場では「データにもとづいて」「定量的に」が連呼されていて、組織として再現性ある事業運営をしていこうと考えるならそれはとても大事なことで、そこを否定したいわけではなく。ビジネスとはあまり関係のない人々の生活の場面にもそういった「客観性」「定量性」「再現性」を重んじる価値観が染み出してきているように感じるとぼくはびっくりしてしまうのかもしれない。
ぼくは別に、フォロワーが多い人をフォローしたいわけではない。
ぼくは別に、興行収入が高い映画を観にいくわけではない。
ぼくは別に、レビューの点数が高い商品を買いたいわけではない。
友人の A さんが日記に「この映画は最高だった!」と書いていて、友人 B さんがポッドキャストで「あと何回か観にいくと思う」としゃべっていた。そういうときに強く興味をひかれるなあ、と思う。ひとつひとつの声は主観だし、こうしてぼくが行動を喚起されるとしてあまり再現性のない話だし、なにかを着実に売り込みたい立場の人からしたらここに書かれていることなんて役に立たないのだろうけれど。
「主観」や「再現しないもの」に再注目して、愛でていきたい気持ちがある。釣りタイトルや、驚き屋のみなさんが好んで用いるフレーズはだいたい「借り物の表現」に見えていて、そこらの個人が自分の言葉で淡々と吐き出す「自前の表現」こそを愛していきたい。ぼくが思い描く豊かな世界ってのは、きわめて主観的な自前の表現に満ちているのだ。ウェブには、そうした世界を育む土壌があるはずだ。日記やブログをやっていこう。 関連するかも