身体で感じる価値を信じる
小学校でのボランディア活動で関わらせてもらっている学級がいくつかある。先日、とある学級で「自分たちの今年度の目標を完成させる」って時間があって、仕上げの時間に運よく同席させてもらった。 国語・算数・理科・社会のふだんの座学の授業と比べてもぼくの出る幕はほとんどなくて、楽しそうにのびのびと作業を進める児童たちをにこにこと見守っていた。学級のミッション・ビジョン・バリューみたいなものを児童たちが話し合って決めていくの、とても尊いと感じた。たぶん 2 ヶ月間くらいかけて整えていったのかな。 最終成果物は、
教室の黒板の 70% くらいの面積を持つ大きな紙に
みんなで決めた構図の絵を描いて色を塗り
みんなで決めた文言 (例: あかるくげんきな1年1組) を一文字ずつ切り出した紙で表現し
ひとりひとりが描いた自分の似顔絵を貼っていく
と、だいたいこんな感じね。画像検索してもらったらわかりやすいか。
https://gyazo.com/4719b3352de5b83a7992b19168651051
できあがった大きい紙と、そこに至るまでの児童たちの作業風景を見ていたら「これに価値がないわけがないじゃん」と思ったのよね。めちゃくちゃよかったもん。教室の雰囲気もよかったな。クーピーで色を塗る人、ハサミで紙を切る人、細部の不明点を先生に相談して明確にしていく人、似顔絵の持ち主を探して回る人、などなど。みんな、それぞれの方法で場に関わっている。 ここで「価値」という言葉を持ち出すことにも迷いが生じるくらい、直近十数年のぼくは「資本主義的な軸で、客観的に定量化できるもの」に重きを置くスタンスだったかもなあ、と思う。今回ぼくが教室で「いいじゃん」と静かに感じた価値というのは思い切り主観的で、身体的で、だからこそ他でもない自分がこれを認めてあげたくて、お金には換算されにくい価値を守っていけるようにがんばりたいと思ったのよね。 放っておいたらね、お金にならないことはどんどん失われていってしまいそうで、危機感があるんだと思う。