意地悪じじばばムーヴ
悲しみに暮れた正直爺さんと婆さんは、泣きながら燃えカスの灰を持って帰りました。灰が風に飛ばされ木に降りかかると、きれいな桜の花が咲きました。たまたま通りかかった殿様が、桜の美しさに大喜びし褒美を取らせようとすると、そこへ意地悪爺さんと婆さんが乱入してきました。殿様のご褒美を横取りしようと、真似して囲炉裏(いろり)の灰をぶちまけると、花が咲くどころか殿様が灰まみれになってしまいました。
花咲か爺さんのような昔話には「意地悪爺さん・婆さん」なキャラがよく登場すると思う。
誰かが得をしているのを見て、自分も得をしようと行動する
得をしている人の表層だけを真似ようとして、結果、痛い目を見る
特徴をざっくりまとめるとこんなところだろうか。このような行動体系を「意地悪じじばばムーヴ」と呼んでみよう。
これを書いているのは 2025 年 3 月で、南港ストリートピアノの一件が話題になっている。現代の寓話っぽいな、と思ってメモしておくことにした。 この事例は自戒の意味で覚えておきたい。ストリートピアノという文化に敬意を払わずに「おいしいところ」だけをいただこうとして、こういうことになってしまったのかな、と感じている。 2024 年に songmu さんが書いていた下記の記事も思い出した。 私としては元々の文化が理解されて敬意が払われており、アドベント期間を有意義に過ごすためのアイデアというコンセプトを外さなければ問題無いと考えています。元々の本家の英語のPerlアドベントカレンダーがアドベント期間に開催されているように。
ただ、アドベント期間を外れているのにアドベントカレンダーを名乗るのは良くないと私は考えています。それは元の文化への理解に欠ける行為に感じるからです。
現代の情報環境だと、アプリケーションの使い方によっては、大量の情報が洪水のように押し寄せてくるような日常になる。そうすると、キャッチーな概念やバズワードも視界にどんどん入ってくるから「なんか聞いたことある」くらいのフレーズをたくさん抱えることになる。ひとつひとつ調べながら覚えていく、というスタンスを維持しにくい。なので意味の希薄化がすごい勢いで進行していく印象がある。 ぼくの観測範囲においても、先述の Advent Calendar もそうだし Lightning Talks なんかもそうだな、表層だけが模倣されていく様子を眺めている。身近なところにも「炎上のタネ」はあるように感じている。敬意を欠く言動でだれかを傷つけたくはないし、身近な人がそういったことを起こすのも見たくないので、みんなで気をつけたいと思う。 意地悪爺さん・婆さんのような状況に陥らないように、先人たちが大事にしてきたものに敬意を払うことを忘れずにいたい。