◯◯が苦手、という表明が出てくるときのパターン分け
以前に「◯◯が苦手」というページにもごちゃごちゃと書いたことがあって、自分は「苦手」というテーマに興味があるのでしょう。また書いていく。人間による「わたしは◯◯が苦手」の表明にはいくつかのパターンがあるように思い、整理を試みる。 ある評価軸において、低い評価を得ているパターン
たとえば 100 点が満点の算数の筆記試験で 50 点を取った、とか。マラソン大会で最下位に近い順位になった、とか。なにかしらの評価軸の中で「相対的に評価が低かった」という体験をすると「自分は算数が苦手」「運動が苦手」という自認に至りやすいと思う。 あとは「◯◯をしたら笑われた」「否定された」ってときも同様かな。他者による評価によって「自分は◯◯が苦手なのだ」と思わされてしまうことはあるだろう。 それに取り組む「過程」よりは「結果」によって「苦手」という認知がつくられるパターン。
それに取り組むときの心理コストが高いパターン
「◯◯をやろうとすると気が重くなる」のように、どうにも手が伸びない、気が進まない、もっといえば嫌悪感を抱くような対象について「◯◯が苦手」と自認しているパターンがある。 ぼくにとっての「書類仕事」はそんな感じで、うまく完了させられるかどうか、よりも手前の話として「気が重い」がある。そんなわけで「書類仕事が苦手」と表明したことがある。 このパターンは「結果」「成果物」に対する他者評価は関係なく「過程」に要因があって成立している。とはいえ、他者評価によって傷つけられた結果として「◯◯のことを考えると気が重くなる」という状況に至ることもあると思う。
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成果物の質は高くないが、それに取り組むのは楽しい
取り組むことを考えると気が重いが、成果物の質は高い
こういうケースはしばしば観測されて、どちらも「でも楽しそうじゃん?」「でもいいものをつくるじゃん?」という反応の形によって「本当に苦手なの?」と周囲からフィードバックを受けることがある。 過程の話と結果の話がごちゃまぜのまま「◯◯は苦手」という言説だけが流通していて、認識合わせに難が生じているのだろう。なので自分は、なるべく「◯◯は苦手」よりも状況を詳細に描写できる説明を選んでいきたいと思った。