キャンセル・カルチャーについて考えたこと
ぼくも実名を添える形でウェブ上での情報発信や意思表明を行っているので、とても他人事は思えないトピックだ。おそらく 2006 年からかな、それ以降は継続的にウェブ上になにかを投稿していて、現在もアクセスできる状態で残っているものがたくさんある。仮に、ぼくが公共性の高いプロジェクトに関わることになってその旨が発表されたとしたら、なにかしら掘り起こされて炎上するんだろうな〜と思う。実際に公共性の高いプロジェクトに関わることはなさそうだけれど、万に一つお声がけがあったとしたら「自分には◯◯なリスクがありますけど、問題ないでしょうか?問題ないかどうか、どうやって判断することになりますか?」とこちらから話題を切り出すことになりそう。場合によっては自分の進行によって自分の採用がお見送りになる。 キャンセル・カルチャーのページをつくった当時は、そこまで真剣に自分事として考えていなかったと思う。どこか遠い国で問題になっていること、くらいの距離感で捉えていたような記憶。それが、TOKYO 2020 の開会を迎えるころには日本でも「なるほど、これがキャンセル・カルチャーか」と具体的に解釈できるようになっていって、この文章を書くに至っている。 じゃあ、公共性の高いプロジェクトに関わる人・関わりたい人は、パブリックな情報発信や意思表明を避けておけばよいのだろうか。そう単純でもなさそう。実際に LINE のテキストチャットのスクリーンショットが世に出てしまうような例もあるし、テキストに比べればログに残りづらい口頭での会話だって誰に録音されているかわからない。徹底的にリスクを避けようと思えば沈黙を貫き通すしかなくなってしまうが、一切の活動の痕跡が見つからない人となってしまえば、それはそれで抜擢が難しくなる。 翻って、自分のような企業勤めの会社員の立場だとどうだろうか。今後の言動や過去の言動がどんなことを引き起こし得るだろう。事が大きくなれば退職せざるを得なくなるだろうか。悪い評判がついてしまえば再就職も困難になるかもしれない。退職とはならない場合でも、処分を受けたり社内人事で配置が変わったりするかもな。
この時代のぼくらは、どんなつもりで暮らしていくといいだろうね。
この人を起用しようと思っています
こういうところに魅力を感じていますが
こういう問題も抱えていると思います
と開示した上で広くフィードバックを募るなどして、建設的に進められてほしい。開示時点で批判が止まないようならその人の起用は考え直した方がよい。公共のものであれば公共に認められるような人選とプロセスが期待されるだろう。
企業のような活動体については、たとえば管理職に就くようなタイミングで、 あなたにピープルマネジメントをお願いしたいと思っています
あなたのこういうところを評価しています
あなたのこのような言動については不安なところもあります、今後についていっしょに話しましょう
といった会話があってもいいかもしれないな〜、と思った。
いずれにせよ、なにか「よくないかも…?」という言動があったときには、なあなあにして見過ごしてあとになってから大爆発〜!とならないように、なるべくそのときそのときで、手前で手前で処理するのがよさそう。溜まりに溜まったネガティブな感情が大爆発してしまうと誰にも制御できない状態になってしまう。
そういう意味でも、なにかあったときは問題を矮小化せずに、犯罪にあたる内容であればちゃんと逮捕するとか、なるべく後払いにしない態度は重要になってくるのかもしれない。ぼくは、教育現場の聖域っぽさは不思議に感じていて、暴行罪や傷害罪に該当しそうなものが「いじめ」と矮小化されがちなところがあると思う。同様に、会社などの組織内のトラブルも「ハラスメント」として曖昧にされて矮小化される事例があるが、そういった「まあまあ、そこまで荒立てなくても」をスルーし続けると、どこかで大爆発を起こすことにつながるのではないか。 「過去にいじめをやっていた人」ではなくて「傷害罪で逮捕歴のある人」であれば、選定に関わる人たちの捉え方も変わってくるだろう。 最後に、このトピックに関係しそうな自分のスタンスを軽くまとめて終わりにする。
未来をよりよいものにしようと活用する分には、意義のあるものだと思う
ただただ「誰かを攻撃したい」って人に武器を与えるようなことになると癪
今のところ、自分はこれからも情報発信や意思表明を続けていくつもり
それがどんな結果を引き起こそうとも、自分の人生の一部として受け入れていきたい
公共性の高いプロジェクトではプロセスの公共性も高めていかないとトラブルを回避できないと思う
過ちを犯した人が再挑戦できる社会であってほしい
過ちの度合いによって、再挑戦が許される雰囲気になるまでに要する時間に差は出るだろう
再挑戦を許容したいからこそ、過ちをなあなあで済ませないことが重要だと考えている
身近な誰かの過ちを甘やかすことは、その人の未来の可能性を閉ざすことにつながり得る