世界に対する Read/Write 権限を持っている
自分はそういう感覚をもって生きているね、と思ったのでメモ。
おそらくオープンソースソフトウェアに囲まれた生活をしていて思考に影響を受けたのだと思う。なにかしらの成果物があったとして、その「作り手」と「使い手」は別々の世界に住んでいる別の生き物ってわけではなく、どちらも同じ世界に生きている似たような生き物で、境界もあいまいだったりする。持ちつ持たれつ。 商業誌に掲載される記事を書く、という経験も大きかった。一度でも自分が「書き手」の役を担当すると、それ以降は「読み手」の立場でいるときにも書き手のことを想像するようになった。この記事は書くのがたいへんだっただろうな、自分の思考レベルはこの域には達していないな、なんてことを思うようになる。
現代社会を生きていると「お金を払えばなんでも手に入る」という感覚を得やすいと思うが、そうだとしても、少なくとも人工物は誰かが作らなければ生まれない。
作り手のことを想像するようになってから、成果物に対する敬意を欠いた文句を言わないようにしたいと強く思うようになった。チャンスを見つけて感謝を伝えたいし、よい関わり方が見つかれば手伝うこともある。オープンソースソフトウェアであればパッチを送ることができるし、書籍を読んでいて「ん?」と感じる箇所を見つけたならサポートサイトなんかを探して適切にフィードバックすればいい。 自分は、世界から与えられたものをそのまま受け入れるだけの存在ではないのだ。ただ文句を言うだけでもなく、それをベターにするために建設的なフィードバックを送ることもできる。
「自分はそれに影響を与えることができない」と思い込んでしまうと、なにか気付いたことがあっても「文句を言う」くらいしかできなくなってしまうのかもしれない?
Admin 権限を持っているわけじゃないからなんでも自由になるわけじゃいけれど、Write 権限は持っている感覚があるんだよな〜。少なくとも Issue を立てて問題提起したり、Pull Request を送ったりする自由はある。これまで接してきた人々が、いつでもぼくの話に耳を傾けてくれていたという幸運の上に成り立っている感覚だろうか。
お金を払ってなにかを利用するときに「お客様」という立場になるのもあんまり好きじゃないんだよな〜。せいぜい「お客さん」だと思う。店員さんが下から目線で接してきてなんでもかんでもやってくれようとするの、自分にとっては心地のよいものじゃない。セルフレジや、お水はセルフの飲食店や、呼ばれたら自分で回収しにいくフードコードなんかが好き。 「お客様はそこに座って何もせずにいてください〜」ってのが、Read 権限しか与えられていない感じがして好きじゃないのだろう。自分たちとあなたたちの協力によってここでの体験をつくっていきますよ、というつもりでサービスを利用している。自我が強い…!
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