ジャグリングをsophisticateする
『ピンクの猫』は、ジャグリングをsophisticateする言葉を、概念を、やっています。 あとで整理する。
『ピンクの猫』は、誤解を恐れず言えば、ジャグリング哲学者、ジャグリング分析美学者たちのことだ。
「良いジャグリングってなんですか」
ソフィスト、ソフィスティケート、
概念、言葉によって〈あなた/私〉の世界の見え方を変え、あるいは価値を再-発見させること。
ジャグリングをsophisticateすることが『ピンクの猫』の使命、存在意義、定義である。言葉、概念を更新し、より洗練させ、すっきりと明晰に、あなたが体験する世界を感じられ、鑑賞する作品を考えられるように。sophisticateされた知/認識枠組み(言葉・概念)を手に入れたあなたにとって、ジャグリングの世界の体験はより豊かになり、ジャグリングの作品の鑑賞はより豊かになる。
「学者」という語で誤解しないでほしいのだが、『ピンクの猫』の目指すところは、学問的達成でもあるかもしれないが、しかし非常に実践的で、経験的な達成である。
認識枠組みを持たない者はいない。
『ピンクの猫』の目指すようなsophisticateされた認識枠組みを持たずとも、人は、生来の五感の作用や人生経験から成る独自の認識枠組みによって、世界を体験し、作品を鑑賞し、その素晴らしさ、良さ、快感を味わうことはできるだろう。
ただ、その「良さ」を他者と共有するためには、言葉が、しかもsophisticateされた言葉が、必要ではないか。例えば「これは良いものです」とか「これは私の好きなものですが、こういう理由で私には好ましく感じられます」といったことを言うとき、"ある種の言葉"が必要となる。
その"ある種の言葉"とは、フランク・シブリーに言わせれば「美的用語」なのだが、あなたの見る世界/作品を記述し、世界/作品とその価値とを紐付ける言葉だ。
そして、その"ある種の言葉"は、私とあなたを、あなたと誰かをつなぐ言葉になるかもしれない。
言葉が足りない、というのは僕だけが感じる不足/ニーズではないだろう。
例えば、「ジャグリングをやっています」と言ったとき、「大道芸の?」という反応が返ってくることを思う。このとき私は何と言えばいいのか。「まあ、はい、それです」という歯切れの悪い返事、とともに〈私〉が誤って再定義される。〈私〉の言葉を持たないせいだ。
〈私〉の語り、〈私〉の言葉、僕のnoteやtwitterをここ1,2年追っている人が居れば、僕がこの「〈私〉の語り」「言葉の獲得」というテーマを追っていることを知っているだろう。
『私はジャグリングをやっています。私はジャグリングが好きです。こういう理由で、ジャグリングは「良い」ものだからです。』と言う『こういう理由』の部分が明らかになることは、もしかしたら相手があなたのことを知るに際して、「ジャグリングをやっている」という情報よりも有用なものかもしれない。
それはあなたの本質・根源を開示することだから。あなたにとって、世界がどう見えていて、その世界の何を価値あるものと感じているのかを伝えることだから。
そのような本質的、根源的なコミュニケーションを可能にするような、〈私〉について語る言葉を手に入れたいと思うことはごく当たり前のことではないか。
ジャグリングをsophisticateする言葉は、ジャグリングと関わるあなたをsophisticateする言葉でもある。
コメントめも
『「sophisticate」には、複雑化させるという意味もあるのでは。「すっきりと」明晰にという意味とは別に、より複雑化することで精巧にする。このことは、現実世界が常に・既に複雑であり(異種混淆という意味での)「混雑」していることや、私たちが体験するものとしての世界が必ずしも洗練された明晰なものではなく、断片的であったり多義的ないし(意味)不明瞭・未確定であったりするということを考えると、示唆的である。つまり、「sophisticateされた知/認識枠組み(言葉・概念)」によって、複雑な世界体験・作品鑑賞を、より「そのまま」に近い形で言語化できる。これは、refineすることでpureにするというような「洗練」の意味とは異なる、sophisticateの意味である。
(しかしながら、言語化できない世界体験があり得る(のか)という点は、当然念頭に置いておくべきである。)
(そしてもちろん、上記の「複雑さをそのまま」という側面は、新たな知/認識枠組み(言葉・概念)を手に入れたことによって認識の側が(つまり体験・鑑賞が)変わり、「より豊かになる」ということもあり得るという側面を否定しない。)』