2025/5/27
読書記録
goryugoさん
体力の観点でいうと、この本の「疲労」の概念はとても面白かったです。
「疲労」と「疲労感」が違うという話だけでも「体力」と関連させて考えられそう。
疲労を概念として捉えて考えていくのはおもしろそうです。なにより「ウイルス」が知っていたという点も興味深いです。
余談ですが、ド文系の自分にとってずっと気になっているけれど手が出しづらいのがブルーバックス新書でした。
何となく理系の入門書は物理や科学の基礎を高校でやってないといけないような印象やハードルの高さが自分のなかにありました。
下の日記の話とも関連しますが、むかしの固定観念や印象に囚われて読書の領域を狭めているところが自分にはあるので、これを機にブルーバックスや理系の入門書にもチャレンジしてみたいと思います。
倉下は「書くのがめんどくさかった」はごく普通に日記と感じる。
ある記述が、「日記」に値するかどうかという判断を個々の人間は持っている。
僕の場合、「書くのがめんどくさかった」は意識しないと日記だと感じないです。
むしろそのような日記を書いてはいけないような意識がありました。
日記の原体験は小学校の夏休みに課される日記です。あれは嫌でした。
この日記が嫌だったことは大別して2つあります。
ひとつめは日記を先生へ提出することです。当時の僕にとって、それは先生に読まれるような内容と文章を書かないといけないものでした。そうなるとどこか本音ではなく道徳的な内容で当たり障りのないことを書くため、おもしろくも何ともない内容です。天気と出かけた場所と食べたものをかいて、たのしかったですと文末に書くような日記でした。
せっかく夏休みで、一日中、家の中でごろごろ本を読んでテレビを見てお菓子を食べて幸せな一日だったのに、これを宿題の日記に書いてみると、先生の目線を意識してごろごろなまけた自分に対する罪悪感が生まれて嫌な感じだったことを思い出しました。
もうひとつはその日の出来事を書かないといけないことです。これは指示というより日記に対する当時の僕の固定観念でした。日記をまるで新聞記事のように適切なその日の内容を記録しないといけないと認識していました。
このような日記に対する固定観念から脱せたのは最近になってからです。
いまのように日記は自分に向けて自由に書き残すものという転換ができなかったら、いまもおそらく日記嫌い、ノート嫌いのままでした。
それでも、まだまだ原体験に足を引っ張られるように日記に対して身構えてる自分がいるのも事実です。
「書くのがめんどくさかった」とだけ書く自分を許容するのに、ある種の勇気が必要です。
おそらくそんなことを書いたら先生に怒られるのではないか、という軽いトラウマめいたものが背後にありそうです。
そんな日記嫌いの半生でしたが、この公開Cosenseは続いています(今日で連続75日目でした)
一緒に公開Cosenseをしている方やナレッジスタックのデイリーノートの投稿をつうじて得られる、適度な外部感や連帯性とほどよい距離感がいいのだと思います。
またほかの方の記録を読むにつれて、記録のもつ文章の自由さや豊かさをありありと実感して学習しています。
加えて毎日何かしら書こうとすると自然と自分の思考や対象に対する考察を残さないと文章が書けない状況になり、結果として学生の頃の形式的な日記からの脱却が図れています。
何よりいくら自分のためとはいえ、自分ひとりだけだとなかなか習慣として続けることは難しいです。
いっぽうでかつての宿題として課された日記のようにすべからく添削を受けるようでは、書きたいことが何もかけません。
この公開Cosenseやデイリーノートの投稿のように「自分の箱庭」のような形で残せていける自由度と他者性が重要なのだと思います。
ここまで振り返ると、いまの学生間でのSNS全盛に対して、公開Cosenseやデイリーノートの共有がSNSとの付き合い方の対抗策になる気もしました。けれども学生のうちからこの形式で距離感を保ち続けるのはやはり難しいのかなぁ。