2025/5/19
#生活ロギング 2025/5 2025/5/20 - 2025/5/18
読書記録
『中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)』
『街とその不確かな壁(上)(新潮文庫)』
『基本文法から学ぶ 英語リーディング教本』
書くことの意味が変わってきた現代だからこそ「ゆっくり丁寧に書く」意味が生まれる
愚見をもとにごりゅごさんがていねい語で文章を書く効用について書かれています。遅ればせながらこちらをもとに考えてみました。
ていねい語で書くことの効用についてリンク先では主に2点が挙げられています。
ゆっくり書くことになる
他者性が意識される
この記事を読んで以来、しばらく考えてひとつ気が付きました。
それは、現代では文字入力が進化しすぎて、口語体が口語と一体化していることです。
文字を書くということは、長らく高価で手間のかかるものでした。
平安時代では教養のある貴族層を中心に、毛筆で漢語や和語を取り入れながら和紙に少しずつ書いています。
これは書くというよりも、文章をしたためる(認める)と言ったほうが動詞のニュアンスとして近いです。
明治期に差し掛かって文語体が出てきても、まだ口語体とは一線を画しています。長らく日本語において文章体と口語体には明確な隔たりがあり、話すように書くことは一般的ではなかったのかなと考えます。
その後、大正に言文一致が生まれて徐々に書くことが口語体となり、話し言葉に近づいていきます。それでも書くことにおいては、手書きや毛筆が主流で、一言一句をしたためる具合で文章は書き進められていました。
つまり手書きの長い期間において文章を書くこと=文章をしたためることと同一でした。
この間、話すように書くことは基本的にできないので、文章を書くときは、文章を書くための遅い速度と調子をあわせるように思考を展開していました。それは決して話すように流暢な思考ではなかったですが、一言一句にわたって考えを行き届かせたうえで、最後に文面へ展開される整った思考だったと思われます。
他方現代ではキーボードおよびスマホの普及で、文字を「入力する」という新しい行為が発明されます。
これによって現代では文章を書くこと=文字を入力することとなり、文章を書くスピードがほぼ話すスピードと同等まで向上しました。
その結果、一般にイメージされている文章を書くことはペンで紙に文章をしたためることですが、実際に行われる文章を書くほとんどの作業は文章を入力することであり、認識と行為がじつは全く別物といっても過言ではないと思います。
したがって現代人の文章能力は、ここ30年間において、文章を書くスピードだけが物理的に速くなりました。さらにこの環境へ生成AIによる助言や下地などの省力化ももたらされます。
ただ肝心の人間の作文能力は、この外敵装置の進化に追いついていないようです。
その結果、文章を単に速く入力することができるようになってしまうと、僕たちは従来の書くために考えることを行わなくなり、話すように考えたものを入力することへ注力しているのです。
これは書く文章量=入力する文章量が圧倒的に増えた現代では、話すように書き続けないと処理できない環境の要請でもあり、一概に否定される能力ではありません。
けれども肝心なことは、話すように文字入力できる能力とあわせて、従来の書くために考える能力も保持することだと思います。
翻って表題ですが、ていねい語で文字を入力すると、普段の入力するである調の文章より入力スピードが遅くなります。
その結果、失われかけていた書くための考える能力に、ていねい語の入力速度なら自然とアクセスできているのだと思います。
ここを展開すると、書くための考える能力にアクセスするポイントは文章を書く速度をゆるめること、かつてのように文章をしたためるように書くことにありそうです。
具体的な方法を考えてみます。
ていねい語で入力する
書いた文章を推敲する。
書いた文章を音読する。
手書きで文字を丁寧に書いてみる。
余談ですが、村上春樹が小説を書きはじめたときに自分の書いた小説を一度英語に翻訳して、その英文をさらに日本語へ翻訳していたことを思い出しました。ひとくちに自分の考えを文章に書くとしても、まだまだ工夫して上達できる余地はありそうです。これからもまた考えてみたいと思います。
また文章を読むことについてもどのような変遷があるのか考えてみたいと思います。