2025/5/13
読書記録
ちょっと今日はだいぶおつかれですので、読書記録は進展なしです。
人が生きて行く上で、自分と家族を養っている、ということがこれ以上ない達成なのだ。これは何度も力説したい。ほんとうにそれは難しい仕事なのだ。一冊の本を書くことなんかとは比べられないくらい「生きること」に直結した偉業である。
いまとなってはおぼろげだが、子供や学生のころ、自分が働くことやお金を稼ぐことをうまく想像できなかったです。
将来の夢やなりたい仕事も特になかった子どもでした。目の前の授業や習い事に手一杯で将来のことを考えきれていなかったのかもしれない。
それでもいまは毎日仕事をして奥さんと娘を養っています。
うまく言えないのですが、あのころ働くことをうまく想像できなかった自分と、いま社会人として仕事をしている自分がうまくつながってないような気がしています。
つまり、子供の頃に想像していたおとなや社会人、サラリーマンという者に自分がなれている気がなんだかしないです。
一方で子供の頃にやっていた勉強や宿題、習い事の延長に、いまの仕事である作業をこなしている自分は、しっくりきます。
おなじ直線上で勉強をしている姿と、ノートがパソコンに置き換わって仕事をしている姿は、同じように感じます。
全然論理的でないですが、こどもの頃に想像していた一端の社会人やおとなは、もしかしたら空想上の産物だったのかもしれません。
僕のイメージがかっこいいおとなだったのか、ちゃんとした社会人だったのか、いまとなってはわかりません。
ただ子供の頃には、おとなの姿に対する他者性があって、自分はおとなに生まれ変わるような心地があった気がします。
でも実際はこどもの自分の延長線上にすぎず、同じようなカレンダー上の日々を子供の頃から今日まで過ごしています。
意外だったのは、想像していたおとなの姿になっていなくとも、きちんと家族をやしなってそれなりの仕事ができていることです。これはおとなになってからの発見です。
いろんなトラブルやミスもありますが、毎日仕事へいって多少のお金がもらえる生活を送れています。
他者性のあるかっこいいおとなやちゃんとした社会人に、これから成れる可能性はあるのでしょうか。
それともやはり空想上の産物にすぎないのでしょうか。
あるいはかっこいいおとなやちゃんとした社会人ではないからこそ、おとなでもそれなりに楽しく過ごせるのかもしれません。もし周りのおとなみんながちゃんとしていたら、自分はおとなであることに耐えられなかったような気もします。
ちょうど子供の頃に考えるおとなについての詩でした。探せたので転載してみます。
こういう詩を読むと、詩人のすごみを感じます。個人的に好きな詩のひとつです。
「あのときかもしれない 四」 長田 弘
「遠くへいってはいけないよ」。子どものきみは遊びにゆくとき、いつもそう言われた。いつもおなじその言葉だった。誰もがきみにそう言った。きみにそう言わなかったのは、きみだけだ。
「遠く」というのは、きみには魔法のかかった言葉のようなものだった。きみにはいっていはいけないところがあり、それが、「遠く」とよばれるところなのだ。そこへいってはならない。そう言われれば言われるほど、きみは「遠く」というところへ一度ゆきたくてたまらなくなった。
「遠く」というのがいったいどこになるのか、きみは知らなかった。きみの街のどこかに、それはあるのだろうか。きみはきみの街ならどこでも、きみの掌のようにくわしく知っていた。しかし、きみの知識をありったけあつめても、やっぱりどんな「遠く」もきみの街にはなかったのだ。きみの街には匿された、秘密の「遠く」なんてところはなかった。「遠く」とはきみの街のそとにあるところなのだ。
ある日、街のそとへ、きみはとうとう一人ででかけていった。街のそとへゆくのは難しいことではなかった。街はずれにの橋をわたる。あとはどんどんゆけばいい。きみは急ぎ足で歩いていった。ポケットに、握り拳を突っこんで。急いでゆけば、それだけ「遠く」に早くつけるのだ。そしたら、「遠く」にいったなんてことに誰も気づかぬうちに、きみはかえれるだろう。
けれども、どんなに急いでも、どんなに歩いても、どこが「遠く」なのか、きみにはどうしてもわからない。きみは疲れ、泣きたくなり、立ちどまって、最後にはしゃがみこんでしまう。街からずいぶんはなれてしまっていた。そこがどこなのかもわからなかった。もどらなければならなかった。
きた道とおなじ道をもどればいいはずだった。だが、きみは道をまちがえる。何辺もまちがえて、きみはわッと泣きだし、うろうろ歩いた。道に迷ったんだね。誰かが言った。迷子だな。べつの誰かが言った。迷子というのは、きみのことだった。きみは知らないひとに連れられて、家にかえった。叱られた。「遠くへいってはいけないよ」。
子どもだった自分をおもいだすとききみはいつもまっさきにおもいだすのは、その言葉だ。子どものきみは「遠く」へゆくことをゆめみた子どもだった。だが、そのときのきみはまだ、「遠く」というのが、そこまでいったら、もうひきかえせないところなんだということを知らなかった。
「遠く」というのは、ゆくことはできても、もどることのできないところだ。おとなのきみは、そのことを知っている。おとなのきみは、子どものきみにもう二度ともどれないほど、遠くまできてしまったからだ。
子どものきみは、ある日ふと、もう誰からも「遠くへいってはいけないよ」と言われなくなったことに気づく。そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。
(『深呼吸の必要』晶文社・1984年刊)