2025/4/17
結婚記念日おめでとうございます。仲睦まじく20年目を迎えられてすごいです。
余談ですが、僕は結婚記念日を奥さんの誕生日にしました。この判断は我ながら賢明だったと毎年思います。
そのいったりきたりを続けている間は、シェイクされている=完全に固まっていないが、かといって何もかもが流動的というわけでもない、という状態になれるのではないか
この公開Cosenseで自分の考えを書いていくなかで、たまにこれはいつ結論がでて固まるのだろうと思うことがありました。
でもこの記述を読んだことで、ゆるやかにシェイクされつづけている『流動性のある固体』という立ち位置もあることに思い至りました。
これはこのCosenseを書くうえで、このまま考え続けてもいいんだというように背中を押してくれるような概念だと感じました。これからも自分と外部の間をたゆたうなかで少しずついろんな景色が見えて行けたらいいなと思います。
ナチスの収容所で、囚われた人たちがあたかも牢屋の中に淑女がいるかのように振る舞ったら、人々の振るまいに一定の秩序が生まれた、という話を読んだ記憶がある。そういうのがなければ野放図に(もっと言えば、野生の動物に近く、あるいはもっと無気力に)生きていた人たちの振るまいが変化した。これも一つの「こだわり」の作用であろう。
かつて『夜と霧』を読んだときに以下の文章がありました。
人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。
強制収容所であらゆる外的環境がうばわれても、なお自分のふるまい=こだわりが機能したのだと思います。
こだわりのもつ力は、もしかしたらいま僕が考えているより、はるかに強力で重要なのかもしれません。
たぶんこうやって記録を残すことも、こだわりの力を使うために有効だと思う。
こだわりは日々の記録や反省、創意工夫の積み重ねで生まれるのかも。
これ、メルマガを読んで以降ずっと考えているがけっこうむずかしい。高校生にちょうどいい難易度や分量で、考えさせる書籍はなかなかない。
ちなみに中学生になる春休みだったら、古賀史健さんの以下の2冊を勧めたい。
ひさしぶりに心温まる小説でした。たまにはこういうのもいいです。
青山さんの文体もていねいで読みやすかったです。読者に向けてていねいに親切に書かれるひとだなとかんじました。
あとぐりとぐらの絵本を買おう
もしひとつのCosenseにそれぞれのひとが記入したりコメントしたりしたらどうなるだろうと考えました。
そのあとすぐに、これは絶滅寸前の『インターネット掲示板』だと気づきました。コピペとかAAとか懐かしいです。
Discordのチャット欄とかも近い気がします。けれども少し違うかな。
チャットよりももっと投稿が長めで、論理展開がありそうです。
そういえばLINEやSlack、Teamsの普及で、チャットが爆発的に増えました。
人類のコミュニケーション史を遡ってみても、市井のひとびとの会話が文章に記述されて行われるのは、ここ10年~20年前後だと気づきました。
アプリのチャットは、人類史上で最先端のコミュニケーション形態かもしれません。
そうなると僕達は、ことばを話すような感じで書いて伝える、という新しい記述方法を実践しています。何ならそこに絵文字とかスタンプとかも加わっています。
これらは口頭の会話の延長線上だから、何ら問題なく行えるのが前提になっていますが、果たしてそうでしょうか。
少なくとも、チャットで書かれると何を意図しているのかわからない文章は多々あります。
それを解消するために必要なのは、作文能力でしょうか、それとも会話力でしょうか。
たぶん具体的にどのような力が求められているか明確でないから『コミュ力』という概念が生まれたのかもしれません。
チャットで何が言いたいかわからない。かといって、正しい日本語にすれば概要は伝わるかもしれませんが、それは生成AIで書いた文章のように無味乾燥とした没個性になってしまいます。
もしかしたら会話を文章にするようになった以上、チャット上における文体や文調みたいなものが出現しているのかもしれません。
書き散らかってしまいましたが、もう少し後日深く考えてみましょう。