日本の戸籍
歴史
日本では律令制を制定して戸籍制度を導入
平安時代になって律令制衰退後、中央政府 (朝廷) が戸籍によって全人民を把握しようとする体制は放棄された 日本の在地社会の実情とは合致しなかった戸籍制度は、事実上消滅
地域社会の統治は現地赴任の国司筆頭者 (受領) に大幅に権限委譲し、さらに受領に指揮される国衙では資本力のある有力百姓のみを公田経営の請負契約などを通じて把握 彼らを田堵・負名とし、民衆支配はもっぱら有力百姓によって行われるように
その後、上は貴族から下は庶民に至るまで、家 (いえ) という拡大家族的な共同体が広範に形成されていった 支配者が被支配者を把握しようとするとき、この自然成立的な 「家」 こそが把握の基礎単位に
全国的な安定統治が達成された徳川時代の幕藩体制下でも、住民把握の基礎となった人別帳は、血縁家族以外に遠縁の者や使用人なども包括した 「家」 単位に編纂された 明治時代になると、中央集権的国民国家体制を目指すため、「家」 間の主従関係、支配被支配関係の解体が急務となり、戸籍を復活させて「家」 単位ではなく 「戸」 単位の国民把握体制を確立し、「家」 共同体は封建的体制下の公的存在から国家体制とは関係のない私的共同体とされ、「家」 を通さずに国家が個別個人支配を行うことが可能に このように戸籍制度の復活は封建的な主従関係、支配被支配関係から国民を解放するものであったが、完全に個人単位の国民登録制度ではないため、婚外子、非嫡出子問題、選択的夫婦別姓問題などの「戸」に拘束された社会問題も存在
これに対し、国民主権時代の現代では、より個人が解放された制度を目指して、戸籍制度を見直す議論も存在
関連
参考文献