津村記久子「行列」
ヴェイユは、卵を買うためなら何時間も列に並べる人が、1人の他者の命を救うためには並ぶことができないという、人間の動機、欲望の特性について書く。(『重力と恩寵』p.11、ちくま文庫版)
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物語は、先の東京オリンピック以来55年ぶりに初めて日本に来たという芸術作品を見るために並ばされる12時間の行列の中で進行する。なにしろ、行列に並べば、無料で見られる上に、無料のお弁当まで配られるのである。
物語が進行するにつれて、無料であっても、その行列の中にいる限りは多くの支出を促されるような巧妙なビジネスが仕組まれている様子が、徐々にあきらかになる。
行列の前後で同伴する人たちは、その行列のフラストレーションに耐えつつ、行列の中でアルバイトの監視をかいくぐり列をジャンプすることで他者を出し抜くことや、ここでだけ特別に買えるグッズを転売することで得したいという、いわば二次的な欲望を主たる燃料にして、その醜悪としか言えない環境の中で、美しいとされる芸術作品を一目見るために並び続ける。
行列に並び続ける人にとって、与えられた欲望を疑うことだけは許されない。
わたしたちは、無理やりに喚起するために仕組まれた欲望によって参加することだけが、社会に参加することであると思い込まされている。
しかし、もちろん、そうではない。醜悪な行列を外れたすぐ近くには、美しい世界が広がっている。その美しい世界の中での関わりという、はかなくささやかだが、美しい社会も確かに実在する。
悪辣なしつらえによって生み出された醜悪さの中で、押し合いへし合いし、忍耐を示し続け、勝ち抜いていける強さにこそ価値があると思い込まされている。その重力の中で、恩寵に出会うことができるか。できる、というのが著者の答えである。いや、むしろ、すぐとなりや、見過ごしている目の前にあるのだというのが答えである。しかし、行列からは離れなければならないかもしれない。
わたしたちが自分の欲望のどの部分に駆動されて生きるかについて、本当のところは、自分で選ぶことが出来る。
しかし、一般的に言って、わたしたちはその選択をし慣れていない。むしろ、慣れないように仕組まれた巧妙な次の誘導路が目の前に誘いかけている。わたしたちはちゃんと選択しないように、慣らされている。わたしたちは、そういう社会に生きている。
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津村記久子さんは、10年以上の会社員生活を送った。その辛抱強さと、にもかかわらず、その行列を降りた決断におもいをはせたくなる。
わたしは12年の会社員生活を送った。いまのところ、その後の13年の教員生活を続けている。
2024/7/15