桶狭間の戦い
今川義元と織田信長
その当時、日本最大最強を誇った今川家のエリート武将たちが、こんな間違いを犯したのは、織田信長が十年をかけて改革した組織の斬新さに対する無知と偏見のせいだ。しかし、もう一つ、そうであって欲しいと願う心理が、「勝手読み」をさせる方向に働いたことも見逃せない。 仮に織田勢が中島砦から総力を上げて突撃して来れば、本陣前備えで防ぎ切れない恐れがあるとすれば、どんな対策をすればよいのか。それを考えるとぞっとする。
今川勢の各隊が取るべき行動は、前夜の沓掛城での軍議で決めた。今日は朝から各隊がその通りに動いている。先手の葛山隊は既に南野に渡った。二番手の朝比奈隊は鷲津の砦を落とし、三番手の松平隊も丸根の砦を落として大高城に兵糧を運び込んだ。今川義元の本体も予定通り進軍して桶狭間山にいる。後備えの三浦隊三千人は、曳いて本陣の後ろに続いている。 本陣防衛を強化するために、前の朝比奈隊を呼び戻すにしても、後ろの三浦隊を呼びつけるにしても、今の持場と帯同する荷駄を捨てて走れと命じざるを得ない。もしそれで大した事件も起こらなければ、本陣参謀は大恥を掻く。臆病の誹りと無駄骨を折らされた怒りを浴びる。それを考えると「まあ滅多なことはあるまい」という方に偏った。 (P113/309)
⇒なんだこれは、ホラーか。サイコスリラーなのか。
⇒日本的な「人望」が支配する狭い人間関係の世界では、上に立つ人は、必死で虚勢を張って、立派であることを演じてないといけない。勇敢で、理知的で、寛容で、気前良くあるところを見せていないといけない。そうじゃないと集団が空中分解する。 ⇒さらに、戦国時代なんて村社会をそれぞれに動員していて、各隊が侵攻ついでに略奪することを許すことで成立する公共事業みたいな部分もあったはずで、そんな集団に対して、「ただ俺の身一つを守れ」なんて、ケチくさい命令を下せるわけがない。なんなんだこれは。 今川義元とその幕僚たちは、実際的な面でも過ちを犯した。織田勢の速度、特に決定と実行に要する時間を読み違えたのだ。
豪族連合軍の今川勢なら、全軍の命運に関わるような重大決定には、諸将参加の軍議が不可欠だ。総大将を含む主力軍の突撃ともなれば、主だった者で案を練り、秘かに根回しをして軍議で決定、行動目標と諸将の役割を十分に納得させて置かなければならない。これを怠ると、作戦に齟齬を来すばかりか、途中で脱落する組が出たり寝返りが起こったりする。豪族連合の軍隊編成では、今川義元や武田信玄のようなカリスマ的な権威を持った大将でも、この手続きは省けなかった。 (P114/309) ⇒相手が本当に嫌がることは頼めない。
当然、今川方では織田勢も同様と考えていた。信長は独裁的で家老の意見も聞かない質だとか、織田家には流浪人上がりが指揮する銭で雇った兵がいるとかいった情報は、今川方もよく聞いていたが、そのことから何が生まれるのか、真剣には考えなかった。はや、考えたとしても、正しく想像することはできなかった。 (同上)
⇒思考のプロトコルから外れた発想はそうそうできるもんじゃない。
今川方では、織田勢が攻撃して来るとしても諸将談合のあとと無意識のうちにも思い込んでいた。 (P116/309)
そのためか、今川義元とその幕僚たちは、ここで最後の決定的な誤りを犯してしまった。 (P116/309)
義元が、のちに越前金ヶ崎で織田信長がやったように、鎧兜を脱ぎ捨てて沓掛城へ走っていれば、命ばかりは助かったであろう。 (P118/309)
各地の豪族たちが、それぞれの支配する村落から民百姓を招集して集まる中世的な豪族連合軍は、人的被害に臆病だ。昔は寿命も短いし人身売買もあったぐらいだから、戦国武将は足軽や中間の戦死などさして気にしなかったと思うのは大間違いである。 村民を戦死させれば、その老母や未亡人、維持遺族まで、村の中で養わなければならない。 (P112/309)
このため、豪族連合軍の作戦は臆病なほどに用心深く、いちかばちかの決死隊などめったに出さない。 (P112/309) 中小の(中略)地侍にとって、何よりも大事なのは自らの生命の安全と所領の保全だ。余所から大勢力が攻め寄せた時、殿様が弱虫過ぎると他国の武将に土地を奪われて没落するが、勇ましすぎて徹底抗戦を強いられては討死しないとも限らない。 (P30/309) それに比べて、一歳年下の勘十郎信行は、(中略)これなら家臣一同の意見に従い、戦うべき時には戦い、降るべき時には降るだろう。 (P31/309)