怒らず、焦らず、でも弱者の存在に無神経にもならず。
怒らず、焦らず、でも弱者の存在に無神経にもならず。下記に切り出したツイートのログは、「世界一のクリスマスツリー」への自己弁護へだかの反感がTLに流れていたときにつぶやいたものだったと思う。
「自分が頑張っているのなら、外野に何か難癖を付けられても気にしないようにしよう」「感情を煽ろうとしてくる人や、感情的になっている人の提示している意見は、経験知として間違ってことが蓋然性が高いから、耳を貸したくないよね、人生として」
というようなスタンスは、社会や本人を、パニックやヒステリーから遠ざけてはくれるけど、それが無意識に弱者の抑圧、弱者の固定につながるとよくないよな、ということを考えていた。
ikkiTime 2018/06/22 18:12
いまそこそこお金があったり余裕があったりする人には、それはそれである種の義務があるわけで、それの第一が「怒らない」「焦らない」ではあると思うのだ。ただし…、ただし、それが「苦しんでいる人に無神経でいていい」「弱っている人に手を差し伸べて歩かなくていい」ことにはならないだよなあ。
http://twitter.com/ikkiTime/status/1010088133277331456
《ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。》
糸井重里さんのツイートとしては、上記のものがあって、そういうにおいを感じてしまう人もいるようだ。
たた、情報化社会のインプットの技術として、怪しい情報を前に眉に唾をつけるためのワンクッションとして、依然として有効なのは確か。
タグ知的生活者の幸福と道徳,「より脅かしてないほう」を
from 20180806