上下関係という正義
最近、私の中に、強くかつ深い場所に存在する倫理観として、上下関係に関するものがあるんという自覚に何度か繰り返し到る。 子育てをしているときに、子供に対して「カッ」と感じる怒りは、おそらくたいていの場合そうだったのだろう。 それは、世界に対して尊大であるということだけではなくて、「何かに忠実である」あるいは「何かに真摯である」ということとおそらく表裏をなしている感覚なのだ。 「そこに近づくなよ、危ないから」と言っているのに、面白半分にそこに近づく子供を、それが我が子とはいえ、なぜ監督の義務を負わなければならないのか。
「まずそれをやってみな。ひとつ体験ができて視界が切り替わると思うよ」と言ってもやらない相手に、知恵を伝導してやることなどできない
養育してあげてる立場の人間が、家族のための、生存や生活に必須の家事をやっているときに、養育を受けている立場の者が、自分一人の、娯楽のための都合で(有目的でない理由で)、うまくいっていないからと八つ当たりしたり、甘えていたいからといった、「いっときの感情」で、親を呼びつける……、なんてのは何重にも悪徳で、ゆえに子供の我がままというのは、社会悪である。
という感情が湧く。それは、「かわいい」とか「かわいそう」という感情よりも、私という個体には優先して発動する。
「親のビジョンの方が子のビジョンより正しいという保証はどこにあるの?」とか
「社会が変わっていけば、あるいは新しい世界に足を踏み入れ続ければ、『自分のほうが正しい』という感覚が錯覚でしかない可能性を考慮しなくてはならないですよね」とかといった、
価値相対の批判は確かにできると思うけど、現実にはそこまで相対化できる場面の比率はそう多くない。
というか、正義心というのは社会的本能に根差した感情だから、勝てるのは生死に直結した感情くらいだ。理性では抑えるのがやっとで、発生を緩めるというのはほとんど不可能だ。 そういうことを考えているときに、ツイッターのトレンドワードなんかで、まったく不合理に怒りを持っている人を見たときのことを逆に相対できたりする。 私は「日本民族」への忠誠心はないし、「男だから」「年上だから」俺を立てろ、というような感情はほとんど湧きあがらないけど、それでもある種の帰属意識は、彼らにも私にもあって、スイッチの入った瞬間には、暴力には短絡的に結びつけないにせよ身を焦がすほどの熱量で発生するし、そこには正当性や社会的な必要性を感じさせつつ自我を占拠してくる。
その彼らの熱情を、「正義である」「身勝手なのではなく、むしろ道徳心である」として認めてあげることで社会的な対立を超える契機にはなるかもしれない。