finalventさんとそのブログのこと
「アルファブロガー」だからではない。
(というか、その言葉が一番流行っていたころ、私はブログというものを読む習慣がなかった。私がブログを読み始めたのは、ライフハックブームからだから) 政治・経済ニュースの解説記事
ikkiTime 2016/11/10 12:38
政治的なニュースがあったときの、「早くこれについての極東ブログが読みたい」感。 と、つぶやいたことがある。
この時は、アメリカ大統領選の結果だっただろうか?
それに限らず、きっとそれ以前から、空爆とか制裁決議とか無差別テロとか、あるいは地方知事選挙や衆院・参院選挙なんかの解説記事を読んでいて、私だって一応社会人だから、自分なりに両面考えるし、意見も持っていたはずなのに、全然見えているものが及ばないなあ、と感じていた。 素直に、「あんな風に世界が見えるようになりたい」というようなことを思う。
「意見を表明しておくこと」
いつの記事だったか、どの記事だったか、うまく探せないのだけど、確か、氏が
というようなことを言っていて、ひとり静かに衝撃を受けたのを覚えている。
私が評論の記事を書くとしたら、「このままじゃ社会がヤバいから、自分の文章でみんなを洗脳して、この流れを食い止めなきゃ」と思っているか、「自分の感覚が社会から見たら異端扱いされていて孤独で、誰かにこの痛みを癒してほしい」と思っているか、あるいはもっとバカっぽく「賢そうに見られたい」と思っているか、まあとにかく、何らかの個体としての益を期待して書くと思う。 だけど、そういう意図を秘めつつ何かを書くのは、同時に「見向きもされなかったらどうしよう、『甘ったれるな』と炎上しちゃったらどうしよう」という恐怖を抱えることでもある。 だから、そんな自分の感情とバランスをとる意味で、氏のそんな境地に学んでいたい、という気持ちがある。 人によってブログを書く立脚点は違うものだ。社会のなかで置かれている場所も違うからだ。しかし、共通点もある。それは自分が何かを「正しい」と思う感覚だろう。
私が見てきた範囲では、誰でもブログを書いて表現するとき、「なにが正しいのか?」が問われている。そこが、誰にも見せない日記とは違うし、お金をもらって仕事として書くというのも違うところだ。
そして長くブログを書いていると、誰もが「なにが正しいか」という感覚が強くなってくる。そもそも、そういう中心的な感覚がないと、ブログは続かないからもしれない。
私がブログを10年も書いていて気がついたこと、そして自分なりに突きつめてことは、そうした自分の「正義」に、どのような根拠があるのだろうか、という謎だった。
なぜ正義が気になるか。ブログの世界では、正義を語ることが当たり前の人がたくさんいる。
誰もが自分勝手な正義を持っているから、ぶつかり合うし、言葉の喧嘩のようにもなる。
しかし私は、正義を語ることは、一種の罠だと疑うようになったし、それ自体間違いかもしれないとも思うようになってきた。
正義を語っていると、人はよいことをしている気分になる。しかし、「語られた正義」というものは、実は、他の人でも語れることだ。
正義を語ろうとすればするほど、他の人でも語れる話になる。
例えば、女性の天皇を認めるか、認めないか。認める人も認めない人も、どっちも、誰かそれなりの人が理屈を付けて正義として語っている。そしてブログで語られているのは、そうしたありきたりの正義の文章を多少表現を変えて切り貼りしているだけだ。
これは小林秀雄が言ったことだが青年は隠れるし読者は必ず存在する。その惧れのような手応えはあった。戦時に吉本隆明が決心したこととして、世の中の変化ときには声を出そうというのがあったが、世界が日本が大きな転機を迎えたとき、一人の人間として、独立した声を出してみようとは思った。私という人間はそうした声をじっと聞いて生きて来たせいもあるし。隠れた青年が本当に隠れていたというのも一興かと。
民主主義の国家がどうあるべきか。いろいろな議論はあるだろうけど、絶対的な条件は、そこに複数の声があることだと思う。複数の声というのは、異なる複数の声であって、数の多寡ではない。数の多寡を問うような世論の空気が醸され、熟議に見えるものがどれほど「正義」を掲げてもただいずれかのイデオロギー派の従属を問うだけになったら、そうじゃないんだよ、僕はこう思うんだよ、という声を上げなくてならない、というのが市民の務めだろう。私という隣人があなたという市民と暮らしているという声を上げなくていけない。
そしてできるだけ、その声を残しておくことも重要だと思う。ブログの記事は参照可能に蓄積して、それ自体が社会の精神的な豊かさなっていけばいいと思う。
市民社会では、宗教的な意味合いでの絶対的な規範、あるいは独裁国のような絶対的な規範は存在しない。市民社会はそれを調停するルールによって成立している。そのことは同時に、市民の意見はすべて等しくドクサ(臆見)であり、そこでは、ハンナ・アーレント(参照)の言うようにドクサ(意見)の複数性を廃棄する真理観のほうが問題になる。
アーレントの公共性の考えは、市民社会における市民が、単に多様に存在しているという存在の様態を指しているのではなく、市民がある単一の真理に還元不可能に存在していることを示しているのであり、複数の声が挙げることがその実践にもなる。
私は、ブログとは、そういう複数の声の場であると思う。
そして、その複数性があるということは、市民の意見=ドクサ(臆見)が前提となる。
だから、inumashさんが「「ブログを10年以上も続けてきた」にもかかわらず貴方の声に動かされる人間が出てこなかったんでしょうね」というのは、まさにそうあるべきなのだと肯定的に思う。
ブログの書き手の多くは、「貴方の声に動かされる人間」を求めている。それが正義であったり、アフィリエイトであったり。名声であることであったり。そして、それに大半は失敗してブログから立ち去る。あるいは、それに成功して「動かされた人々」を生み出していく。
私は、そうではないのだ。私はただ一人の市民として、アーレントが民主社会に求めたように社会のなかにできるだけ異なる声を上げること、そして異なる声を届けようとすること、それが市民ができることであれば、それでいいのである。私でなくてもいい。「貴方の声に動かされる人間」のようなゾンビに問いかけること。ブロガーというのはそういうものだと考えるし、それって本当なのかということは、誰もが自分なりに10年くらい実践してみるといいのではないかということだった。最後に毒杯を仰ぎたくはないけれど。
Think different !
僕は僕の意見がそれほど広まらなくていい。民主主義に必要なのは、複数の意見なので、いつも珍獣でありたい、くらい。
民主主義は少数意見を活かすというより、一般意志のなかに多数・少数の意見を集約することだと思うけど。
ブログは行動(市民が声をあげること)だと思っていますよ。
僕がブログを書くのはそれが市民社会というものだから。
ブログを書き続けることは、多様な市民であることを確立していくこと。
市民社会で重要なのは正しい意見に同調することより、内容の異なった複数の意見が存在すること。
正義だけでは機能しない。ではどうやって機能させるかというと、最終的には暴力。で、これは最終的であって、普通は原則の確認と手順と合意で機能させるようにする。それがダメなら、原則と手順と合意に裏付けられた暴力が正当化される。
重要なのは正義ではなく、原則と手順と合意。