2023/12/16-2023/12/21
補修公共事業は早めにやるほうが内容が安くつくし、不況の時のほうが、かかるコストも値下がりしている。(『なぜ「やる気
▷ワードで文面を作っていると、タスクリストは紙に書き出したくなる。
▷ある種、ワンアウトラインとは逆の衝動。
▷中央銀行による国債の無制限買い入れはしないことになっているけど、逆に、国債の裏付けなしに日銀が円を刷れるようにはなってないのだろうか。
▷復旧してるのかどうなのか、テストツイート的な。
▷まあでも、真っ白じゃない時点で、復旧はしてるのかな。
▷ikkitimeアット青空社会
▷かつてのネットワークコンピュータの概念や、クラウドサービスの考え方として、「データ(ファイル)はクラウドで共有するが、計算処理はローカル端末でそれぞれ負荷する」という発想があったと思う。 その逆で、処理のプログラムとハードはクラウドが行うが、ファイルは常にローカルメモリで負担する
▷というのは、今日難しいだろうか? サーバー側が個人情報を利用できないから、フリーでは難しいとか、プラットフォーム事業がやれない、というのは確かにあるけど、データ保管のための設備はいらなくなると思うんだけど。
▷結構意味が残ってる気がする。
(ChatGPTに「ロレムイプサムの日本語版を考えて」と指示しつつ)
▷これだと、食に関心がない人のほうが、まあ痩せようとしやすいだろうね。 https://open.spotify.com/episode/4YyNV2rgpYHmriW1ZrlaV2?si=JclQGKvVT0KmLHCXsb0DTw
本を読んでいて、感謝やgiveについてのテーマが書かれているんだけども、今。他人や社会にお金を使うと、精神的に幸福になれる。という項がある。
んん? これ、相手が感謝の笑顔を発してくれて、それを受けるから、ということではないんだよな?
体や本能や無意識が、自動で返報性を期待するというか、公正世界を想像するということだよな?(いま “自動で” と書いたのは、目に見える相手に、「私はこれをしたから、あなたもきっとこれだけ分のお返しを、私にくれると、信じるよ」と圧の重い、具体的で短期的な報酬期待を計算して行動しているのではない、ということをイメージしている。そうじゃなくて、)ただ「良いこと」をするだけで、「私は善いことをした。だから、きっと私にも良いことが訪れるだろう」という未来予測を、自動脳がおこない始める、という含みがあるんだよな?
いや、そんな感覚、私には人生でまったくなかったな。善行や他者へのギフトというのは、「かえりみられない自己犠牲で、でも社会の円滑な運行のために、義務として行わなければならないから、嫌々やるもの」としての感情しか湧いてなかったと思うし、予測発動が起きてなかったと思う。
別に、私は、真性の意味でのサイコパスとかではなく、ちょっと発達障害気味という程度だと思うのだが。
だから、私は「小さないいことが、世の中を良くする」感覚がたぶん理解できなくて、それを理解するためには、経済学の神の見えざる手や社会の治安とか、そういうものをいったん想像しないと実感できていなかったようなところがあるな。
別に他者を搾取したいわけでも、体制にただ乗りしたいわけでもないとはいえ。
それはまあやっぱり、「とられることに怯えている」ってことなんだろう。
▷忠誠心には、いくつかの心的起源があると思う。ひとつはマゾ的というか、超自我のアウトソース的な面。もう一つは、自分の中に法則性を見つけてうれしくなる、法則性発見の面。そして「心の理論」的な意味で、外界の機能性に自分を位置付けて充実感を感じる面。
▷朝ドラなんかで使われる、NHKの屋内セット、確かに物体としてはすごいんだけど、光とか空気の感じ、もう1レベル上がらないものかな。
▷サツマイモやジャガイモは、種芋的に育てることができるのに、カブや大根は普通にタネを巻くの、不思議といえば不思議。
▷@norixnori 集中してるときに苦痛に鈍感になるタイプだと、さらに難。
▷肉がうまいのは本能だし、塩を欲するのも本能だけど、その2つをまぜて食べると「超うめえ!」のは、クセというかバグというか、そこに生まれた“文化”ってすげー
▷ましてや、脂肪と砂糖をまぜてよく冷やしたものが美味しいって、どういうシチュエーションだよ! 自然界の生存の何の役に立つってんだよ!
▷じゃあ、AKGとか三井さんが提案されたらばっちりか、というと、それはそれで難しいんですけどね。
▷結束バンドでやってみると:八十八ヶ所巡礼w まあ厳密には、近いのは結束バンドとではなく、SICK HACKとになるわけだが。 放課後ティータイムも、言及される理由は分かるが、厳密に“音楽性”が近いのかというと……w
▷「鞍部で越えるな」
⇒相手の論理を、最低の反論箇所で反論するな、というような意味だったと思うのだけど、そしてそれは、「学ぼう」としている第三者にとってはそのほうが当然ありがたいのだけど。
しかし、対立価値観の最低品位で発言行動をしている人間って、放置したときに共同体に対して1番害が起きそうな存在でもあって、真っ先に叩きつぶしておかなきゃいけない存在として目に映る。
そして、自陣営価値観の最低ランクの発言は、相当に卑しかったとしても、放置して(お目溢ししても)問題がなく感じられる。「うるさいだけ」「アホっぽいだけ」に感じられるんだよな。
▷@rashita2 「今日のエッセイ」くらいの長さですよね。読み物として読むとちょっと物足りないけど、書く側にはすごくちょうどいい。 連ツイフル文字なら2〜3個くらいの長さ。
▷もちろん、50文字以下の1行メモみたいなツイートにもすごい気やすさはあるわけなんだけど、それとはまた別の「書きやすさ」がある。
▷「チートスキルもらったので素直に世界を救います」
▷@rashita2 こういうのでいいんだよおじさんが出てきちゃいますよね。
そうした着想を人に説得的に伝えるにもアウトライン(ストーリー)を必要とする
⇒「未来の自分に実感可能に伝える」だけでも、着想に物語が混ざり始める。
1章(はじめに)の読みにくさがかなり高い。文章が硬いというか。2章になるとそうでもない。これはちょっと損しているかも。序章をもうけて、作者の近況みたいなのを足しておいたほうが良かったのではと心配してしまうw
そして6章に入ると読むスピードはうなぎのぼひ。(好きなテーマなのでw )
電車が満員で、すごく苦しかった。
→自分が乗れたし(乗せてもらうことができたし)、ちゃんと目的駅まで乗っていけた。そもそも、自分が駅に着くまでに、一応運行が復旧していた。みんなが、自分を含めた誰かのためにがんばってくれたおかげ。ぎりぎりのところで救われている。だから私は明日も大丈夫。
著名な「葦」という人生雑誌は、創刊号の巻頭言でこう書いています(同書より孫引き)。
「誰も知らないこんな所にも、こんなにも真剣に生き抜かんとして居る人が居るんだ。『葦』はそんな人たちの作った雑誌だ。しかもそれが特殊な一部の才能家ではなく、あくまで普通の、ありふれた、我々と同じような貧しい才能と働かなくては食えない境遇の人たちばかりによって作られた雑誌なんだ。文学者になろうとするのでもない。ましてや地位や名誉を得ようとするのでもない。ただ我々は良き生を生き抜かんとしているのだ」
「書籍は書き手が記したものを読者が一方的に享受するが、雑誌は異なる。読者投稿欄など、読者が感想や思いを公開する場が設けられ、、人生雑誌の場合は、さらに読者による長文の体験記・手記・創作も多く掲載され、別の読者によるそれへの批評が載ることも。ここには読者相互、編集部も交えたコミュニケーションが成立していた。しかも定期刊行物なので、持続性もあった」
日記系の記事なら「表現」タイプになるし、技術系の記事は「共有」タイプになる。その境目ははっきりしていて迷うことはない。しかし、例えば紀行文的なものになると境は曖昧になってくる。自分が感じたことを書くわけだが、そのためにまず前提を共有しなければならないからだ。こういう場所に行ってこういうものを見てこういう体験をして、そこで私はこう思ったのだ、という流れになる。
で、本当の紀行文ならば、大体そこにある事実が面白いし、五感に訴えるものだから何かしら想像を膨らませやすい。わくわくさせたところに作者の所感がすっと加わることで臨場感も増すだろう。
ところが。具体的な事物ではない世界の話をしながらとなるとどうもうまくいかない。五感に頼れない場合、イメージを浮かばせるのがとても大変だからだ。
日本では多分報道されてないと思うが、ウクライナは自国兵士の安否を家族に充分伝えてなくて、国民の政府への不満が高まっていて、大統領選挙をすればゼレンスキー大統領の再任は危うい。もとより、ゼレンスキー大統領は1期のみと公言していたのにも矛盾す
る。
問題はゼレンスキー大統領の降任ともいえるが、それがまったく目処が立たない状態なのが問題(ウクライナの常ではあるが)。つまり、ウクライナはアノミーの危機にある。戦争よりこちらが深刻。国家自体が融解しかねない。
ウクライナはすでに議会を通した法によって、領土割譲を禁じているので、ミンスク合意延長的な講和案ができない。
自民政権は、矛盾して異質で多様な各界の主張や利害をつなぎあわせて調整しつつ成り立っている。
となると「反自民は団結しよう」と叫ぶ反自民の側も、やはり矛盾して異質で多様な呉越同舟の寄せ集めになってしまう
しかも利害より原理や思想を優先する人の比率は反自民の方が高いから、調整が困難
→
このように、自民は議員も支持層も多種多様な立場の者のバラバラの寄せ集めなので、反自民側の「自民に反対する理由」の方もやはりバラバラになってしまう。
自民や岸田政権の支持率が低くなったのに反自民勢力側が今一つ盛り上がらないのは、これが理由の一つだろう。
ウクライナの戦争では、世界視座の点では西側先進国の口裏合わせで世界動向もなんとかなる、と、いう時代が終わっていることと、ドル依存しなくても独裁国が存立することを、いわばプーチン・ドクトリンが証明したようになった。
ネット民の多くの感覚は19世紀20世紀的なんで地政学的な思考を脱却しないが、ウクライナの戦争で世界構造上の問題となるのは、エネルギーとドル支配の行方。米国がエネルギー自立できるようになったため、ドルに本気でなくなったというか、米国のドル支配というより、国際資本が国家より優位になった。
プーチンの思想を貶す人は多いし、机上ではいろいろ言えるが、現実的にはプーチンの構想が世界を先導しつつある。これが良いとはまるで思わないが。
プーチン思想の強みは、ネーション国家の幻想をうまく吸い上げる点にもあるだろう。
ExcelのVBAなんて
・Subで始まり End Subで終わる
・ピリオドは「の」と読む
・イコールは「を」と読む
・¥は「〜の中の」と読む
・ ForとNextは間に書かれた処理を指定回
数繰り返す
・Ifは条件分岐
まずこんだけ知ればある程度読めるようにな
る。
読めるものは書けるようにもなる。
難しくないんです。
たとえば今の日本のSNSや動画配信サイトで、法治の透明な檻を堂々と破ってみせる動画投稿、集団でショッピングセンターを略奪する動画・集団で暴力的な私刑を実施する動画等々はそれそのままではいられないでしように。事業者が許さないだけでなく視聴者もたぶん許さない。法治が内面化されてるか
ら
それに、ここでしんざきさんが挙げているように、「推し」は子どもや後輩や部下や同僚にバフをかける方法にもなる。自分が推し活で気持ち良いだけじゃない、推された相手を勇気づけたりはげましたりできる。心理的な欲求のひとつだけど社会への広がりがある点が面白い
「いいね」たる承認欲求も、ただめられてテカテカしているだけなら大した役に立たないけれども、自分にバフをかける手段として活用したら結構いける。同様に「推し」も本当は推しを見てキャーキャー言って投げ銭でアがってだけでなく、自分にバフをかける手段として活用すると違ってくる
昔の寺院や金箔張りの仏像とかだって、使える技術と素材でできるだけ浄土を表現しようってものだったはずだから、現代だったらサラウンドスピーカーの音響と振動の中、360度モニタに浄土が映し出され、立体映像のブッダホログラムが現れてドローンが幻覚剤散布していいというか、すべきだよな。
あの人は真面目によくやってたよね、というのは一部の良心的な人の間で語り継がれるかもしれないが、細い糸である。あの人はいや一、大変な人でしたね、というのは歴史にな
る。
いい人、真面目な人という評価は、基本的には同時代、リアルタイムでしか有効ではない。歴史的評価とは、何かしらの片寄り、歪み、否定性がキーであり、それは同時代的には敵をつくることになる。そこで、枠にかけることになる。
僕がそこをきちんとしておきたいことを、読者が読みたいわけではない。
ちょっと細かい話を面白く思うモードに入ってしまったので、頭をいったんリセットする必要がある。そうじゃなくて、本を書くんだ、というモードに戻る。
現代は、「関心を集める」から「注意を集める」にどんどんシフトしていて、前者は興味深い内容への動線なのに対し、後者はアテンションを獲得したらそれで達成となる。その場合、表面がすべてで、中間的なものがなく、反応は直線的なものに留まるだろう。
老人の「趣味」や「自適」や、「理想」なんて、空虚の言い換えでしかないと思う。
老いてくると、老いてきたなりに、すごく深刻に、生きることが問われてきてる感じがす
る。
これ、若い世代には見えないと思うけど、というのは、老人の精神に貯まるものは外観からはわからない。
史学的には「百姓」という概念はないんじゃないかな。あと、同じ地平でいうと「武士」は官僚だし、知識人は階層混雑してる。
ゲーテの『ファウスト』って、老いた博学のファウスト博士が人生に虚しなり悪魔と契約して若返る、と、読まれていて、まあ、大衆的にはそれでいいけど、あれは、老いた心の比喩なんだよ。老いた性欲の成れの果て。
あと、罪に誘導していくのは、グレートヒェンで、つまり、イブ(エバ)でもある。
もひとつおすすめは、落書き。落書き帳とお気に入りのペン(複数)でなんとなく書く。
経験的には方眼ノートと万年筆がいい。万年筆は1000くらい。
落書きだから自由に書けばいいけど、なんとなく暗記してることを書き出すとか。
あと、年齢と関係ないけど、生活空間に花を飾るといいと思う。生きた花。花って光の関係で見せかたを変えていく。
言うことが矛盾してるかもだが、メディア装置は、年取ったら、出来るだけ、高品質がいいかも。スピーカーも音域あるもの、ディスプレイも解像度たかく色もきちんとキャリブレしてあるもの。
あと、本は、その分野の背景をきちんと学んでから読むといい。
あと、人の話を聞くのも、なんか、脳によさそう。
人の話ならなんでもいいわけではないが。
これは言っていいかわからないが、感覚器官を補おうとすると衰える。
人に勧められるものではないが、眼鏡はしない方がよいかもしれない。音も小さめに聞く習慣にするといいかも。
食事も味のきつくないもの。
読書は休み休みかなあ。
よくわからないが、メモ書きながら読むといい感じ。
これも誇ってみたいだが、60代前半まで、
30代の体形を維持してたが、これも崩れつつある。筋力の全体的衰えはきつい。
若い時に一度読んどくと後年の再読の敷居は下がるんだけど、古典ってけっこう最新研究で変わっていくものなので、昔のイメージで最新研究を織り込んだ古典を読み返すと、けっこう驚く。
中年になったころ、あ、自分、若くないんだと、実感で気がつくには、自分より若い医者に診断してもらった時だったな。
まあ、老いてくると、自分が楽しく生きている、というのを認めてもらいたくなる。自分もその圏内にいる。嗚呼!
金持ちというのは、存外にケチだが、貧乏人のケチと違って、貧乏人を嘲るようなケチをする。考えてみると、それこそが金の使い道といったところ。総じていえば、金持ちと関わるのはあまり気持ちのいいもんじゃない。
生のありようを、「栄光」(キリスト教)とも見ず、「悲劇」(ギリシャ精神)とも見す、「あはれ」としたのが日本の精神だが、まあ、日本人の多くが持つものでもない。
源氏は自らの不義の因果応報で薫を得る。あのとき、源氏は「あなこころう」(ああ心鬱)と呟きほぼ絶望の苦笑いをしただろう。因果応報ではあるが、それが生の帰結であるなら、愚かさを込めて「あはれ」とするしかない。
大旅人も不遇の苦悩にあって世の理を「さかしらとおほす」とした。
小林秀雄の最後の思想は、人は仰において救われない哀しい存在であり、にも関わらず生に巻き込まれていく有り様を、理も悟達を排して、「あはれ」と受け止めること、だったろう。
これは、シモーヌ・ヴェイユの『根を持つこと(L'Enracinement)』の感覚でもあるだろうな。「社会主義と神秘主義的仰の奇妙な融合」なものしかたない。
L'Enracinementは、支柱感覚というより、それを、大地に植えていく意義で、この、大地は、人の生の根源というより、伝統ではあるだろう。
美味しんぼの京極さんではないけど、老いてくると、美味しいものより、懐かしいのも、帰巣を幻想させるものが食べたくなる、んじやないか。
困ったことに、自覚はあるなあ。
人は異郷にあって老いていくと、故郷に帰りたいと思うものなんだろう。それで、現代世界というか文明そのものが、異郷化してるんじゃないかな。帰巣的な感覚は幻想化もするんだろう。
この、tacereの派生tacitusから、英語のtacitがうまれ、「暗黙知」のtacit knowing
にも繋がる。
tacitは「言わなくてもわかるでしょ」で香水の名前にも。
知的な人が、中年期になって、精神の支柱がなんとなく問われると、言いしれず不安となり、批判的正義に魅了されるとネット左翼になり、伝統に魅了されるとネット右翼になり、どちらも空回りしているがゆえに、修辞的に過熱して行くんだろう。
ある程度知的な人は、中年期に、自身の精神性の支柱を見直すことになる。
まあ、露悪的な言い方だが、たいていの人の知的ピークは大学受験なんで日本式「学歴」に拠ってしまう。
それ以外は、資格や実績かなあ。
ただ、精神の支柱というのは、もう少し厄介なものだ。古典とか教養か関わる。
年寄りがYouTubeか何かで陰謀論にハマるのも困るが、いま60歳くらいで、なまじ自分の能力や知性に自信があったような人たちがだんだんおかしな方向へ飲み込まれていくのを見るといたたまれない。俺もきっとそうなるだろうというか、川を下りながら滝壺をのぞき込んでいるような気分だ
これ、報道してる人、「祝福」の意味、わかって書いてるかなあ?
NHKニュース
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