2023/08/21-2023/08/26
テンパる、という言葉はもともとは麻雀用語から広まった言葉だと思うけど、現在はすでに「テンションが張る」という意味だと直感的に思って使っている人が多いんじゃないかな。
交渉相手と先に「にぎって」おく、という表現、賭け麻雀かと思ったら、賭けゴルフなのか。語源。
怒りを抑える
全体としてうまくいくことが続いてきたことを信頼すること
知り直すことに謙虚になること
▷プリゴジンがロシア全土を治められるわけもないから、これで他の国々は助かったわけだけど、本人にとってはあそこで勝ち切っておいたほうがよかったよなぁ。
▷いやこれ、吸引法なわけだから、薬物としてはむしろやばいのか?
▷フライパンの照り焼きから立ち上ってくる蒸気の酒だけで酔う。
▷女の人で「可愛い服を着たい」わけでも「可愛い格好をしたいわけでもない」(似合わないから、を含めて)という気持ちを持つ人の存在や、その葛藤みたいなものってある程度可視化されているわけじゃん? だけど「ネコが可愛い」とかの、かわいいものを見たり集めたり、という欲求がないことの悩みって
▷可視化されているんだろうかな? みんなが盛り上がっている空気を壊したくないから、適当にノリを合わせているけど、私って本当は変なんじゃないだろうか、とか。
昨日の仮面ライダーとスーパー戦隊の映画、子ども連れでほぼ満席だったが、ごく少数のソロ客がいてその両隣が空いてしまっていた。こういうの家族連れで予約する立場からするとあるあるで、その両隣を押さえてその場でどちらかに移ってもらうことをお願いすることも考えるが結局やめて諦めてしまう。
⇒両横を買ってズレてもらう……、その発想はなかった。発想すらなかった。まあ、怖くて実際には全然できないけど。(断られたらもったいないし)
「この人は俺より頭がいいはずだから、俺が考えつくような疑問はとっくに思いついていて対処してるんだろう」と思って一生懸命探してみると「やっぱ、あったわ……」という経験は特に大事なんですが、「頭いいはずだから」というある種の憶断が無いと一生懸命探すということをしなくなるのです。
シビアな試合をするチームスポーツに教育的意味があるとすれば、「人間としての好き嫌いはともかく目的のために協力する」ことを学ぶ可能性があることかなと思います。たとえあいつが嫌いでもあいつに働いてもらわないと負けるという場面を経験するのは良いことなのかなと。
「強いチームは必ず仲がいい」みたいな話をもう少し深掘りするとそういうことなのかなと。個人的な好き嫌いが隠せず、あいつが活躍するくらいならチームが負けてもいいと思うようではそれは負けますよね。
で、たしかに体育会系出身者の一部はこういうマインドを体得している人がいるというか、「本音はともかくチームでやる以上はお互いにポジティブに行こうぜ」が強いタイプがいる気がしますね。この圧が強すぎるとそうでない人はきつかったりするわけですが。
大学の教育で難しいのは、目的が決まっていれば好き嫌いは措いて協力するということだけでなく、そもそも目的は共有されるものとは限らず、時にはまったく食い違う状態でそれでもなんとかやっていかねばならない場合がありうることをも同時に教えないといけないところですね。
⇒「トレーニングはキツいほど効く」「単調な練習でも身体に覚えさせたほうが、試合で役に立つ」みたいなことも……、と思ったけど、それはチームスポーツに限らなかったな
⇒目的の前で感情を抑えることと、共通の利益がなくても仲良くすること、なんというか「男女の」対人関係の技術みたいだ。(多様性やステレオタイプを考慮すると、性別で区切るのは良くないのかもしれませんが)
慶應ボーイに対する妬みをツイートするだけでは未来が無いので、まるで自分が慶應ボーイのように心の余裕を持って様々な場面に臨むことを心掛けてはどうだろうかと思う。
たとえばスプラトゥーンのガチマッチ。
たとえば好きな女性を目の前にして。
たとえば就職活動。
余裕があると勝率が上がる。
趣味は読書ぐらいしかないっていう根暗な20代をぼんやり過ごしてしまった人には、「そんな君の30代は、実は心震わす趣味や特技と出会うための土壌がしっかり耕されているんやで。そこへの案内役は、君がぼんやり鍛えた読書(による言葉の解像度や評論の読解力)が役に立つんやで」と伝えてやりたい。
趣味なしの20代だったけど、コーヒーしてても、写真してても、もちろん仕事してても、読書で得た「あ、この議論はあの本でいってたことに通じるかも」と思えることが、きゅうに30過ぎると、ドバッと増えてくる。
たとえば「運転が正しくても原付は車にとっては邪魔」という事実を発言すると、そこに「だから原付はクソだ」みたいな価値判断を勝手に付けて受け取り、反論してくる人がいるよね。だから、人とのコミュニケーションはおもしろい。
逆に言うと、「同じ⚪︎⚪︎として謝罪します」を相手に求める人間は、自分は差別するし、それをやめる気はないし、弱い人間は屈服しろと言うレベルの話。
「同じ⚪︎⚪︎として謝罪します」って、相手が差別者である前提で、あなたはこの件で同じ属性を持つ私たちをまとめて非難するでしょうけど、(地位が低い・権力のない)我々はそれを止めることはできないのでその差別を受け入れ許しを乞いますということなんよね。
一念発起してEvernoteの大量のノート(1.4万)をAppleのメモに移して一月ほど使ってみたけど、Appleのメモが重くなりすぎて、使い物にならなくなった。ちゃんとメンテできていれば、メモが多い時はEvernoteの方がずっと速い。Evernoteに戻そう。
⇒シンプルなメモで、大資本なサービスでも、メモの数が多くなれば重くなるんだとすると、救いはやはりどこにもないな。
沖縄はコントラストが強すぎる。隠された部分が多すぎる。悲しいことがあっても目の前に広がる景色が美しすぎて、自然の生命力が強すぎて、ごまかされてしまうような、まだ元気になりたくないのに元気にさせられてしまうような、自分が置いていかれるような気がする。
反原発運動をしている人たちの中には、それが自分の「生き方だ」「原発問題の中にはすべてがある」と確信している人たちがたくさんいる。高木仁三郎もそう書いているし、「反原発ファッショ」(ファシズム)と批判非難されたのも、今回が初めてじゃないし。考え方を変えるとはそうそう思えないな。 「戦争法が成立したら徴兵制が始まる」→嘘でした。「ワクチン1日100万本接種なんて無理」→嘘でした。「地下水からヒ素が出た豊洲は危険」→嘘でした。「東京オリパラが始まったら日本は変異株の見本市になる」→嘘でした。
「汚染水の海洋投棄が始まれば」←イマココ
そして忘れちゃうんだよね。
⇒これが結構不思議なんだよね。「反対のためだけに反対」しているとまでは思わないんだよ。
「これは悪い方向への変化だ」「止めないと大変なことになる」って、みんな思ってるんだろうし、彼らは “だから” 言ってるんだろうと思う。
でも、「あれで悪く変わって、日々生活が苦しさを実感するから、廃案をあらためて訴えようぜ!」という声を上げ続ける人は、結局いないんだよね。
もちろん、それには政権交代できるほどの勢力が必要だろうと思うけど。(そのぶん、公約の争点にはできるわけで)
なんなんだろう?
やはり、大衆のセンセーションを帆に受けていたいのか。「また反対してる」と思われるのは許せても、「まだそれ言ってるの?」と感じられるのは許せないのか。
もちろん、不祥事は言い続けるだろうし、反原発や消費税ならなんとか言い続けていられるけど、種苗法や検事総長定年延長なんかは全然もたなかった。
中選挙区制への憧れや、日本学術会議は保てているほうか?
→成立前なら、牛歩戦術とか内閣不信任とかで止められるからか?
→恨みは残すが、行動は残らない
映画マトリクスの登場人物をサムネにしてたり、赤と青のカプセルを固ツイにしてたりする
🟠🧠🗣の絵文字が大好き
つか、民主主義の時代なんだからさ、我々、市民/投票者が自分の中の好き/嫌いを野放図に認めてはいかんだろうと思うのは事実。政治の前に、我々の態度そのものが問題だろうとも思うのよね。
オタクであるかは「作品自体のニッチ度」と「一つの作品をどれだけ掘り下げられているか」の2つの指標があるはずなんだけど、何故か前者ばかりが重んじられていてメジャーな物を好きだと言う人をオタクと認めたがらない人種が存在するんだよね
世の中でトロッコ問題にされている問題は大抵、現実には無限の選択肢がある中から敢えて誰かが死ぬ選択肢を2つ用意して選ばせる性格の物が多いです。選ぶ、選ばないの前に「根本的に問題設定が間違っていないか」を判断する必要があります。世の中に二者択一しかない問題なんてそうそうありません。
トロッコ問題的な状況があるように見せかけて設定してくるのはいつも権力のある側なのラジよね
権力持ってても人間である以上できないことがあるのは確かなので。トロッコ問題的状況を回避できても、もっと厄介な問題や状況を突きつけられる可能性は気にとめておいたほうがいいです。
トロッコの線路上に5人の女の子が気を失って倒れています。このままでは5人ともトロッコに轢かれて死んでしまいます
ところであなたの目の前にあるレバーを引けば、トロッコは分岐した線路を進み、5人の女性は助かります
しかし分岐した先にはキモくて金のないおっさんが気を失って倒れてます
⇒これはもはや大喜利に近い設問のアンケートツイートだったけど、結果的にここまで片寄せると、「レバーを引く主体」になれる人が上回るんだねw
皆の漠然とした価値観をAIへ移そうという研究の紹介なんだけど、これが「みんなの『一番死んでもしゃーないと思うヤツをひき殺す意志』を自動運転車に入れる」という話になるのを承知の上で、
赤子x1
男の子X1
女の子X1
妊婦X1
男性医師x2
女性医師x2
の選択肢だと65%が「男の子」で納得するらしい。
人体実験、動物実験その他、倫理的にやったらダメな実験はいっぱいありますよね。倫理的に許されない思考実験だってありますよ。
倫理的に許されない思考実験があるかどうかは置いといて、そもそもトロッコ問題は功利主義と義務論のジレンマだから人数も対象も本質ではないし、「答えない」という選択肢は義務論的立場だからもう思考実験に参加してる。
二択に「用意されてない選択肢」を用意するアホには「それをやるとこうなって全員死にます」「走っているトロッコは何人の乗客がいる旅客車両です」とか出題側も後出しで返せるわけで、そもそも「俺だけが後出ししても良い」に基づいてる会話の成立しない思考回路。
Twitter見てると、1人を犠牲にする選択をした場合に助けた筈の5人の中から「あいつが切り替えたんだ!殺人犯だ!」と糾弾する人が出てきてダメージがいや増しそうな気がしてならないんですよね。
⇒あと、「権力者がいつも庶民に二者択一を迫って、それしか選択肢がないかのように見せかける」というのは、陰謀論としては確かにそうなんだろうけど、
実際には、「政治とは利害調整」という側面がものすごく強いので、(足して2で割ったり、間を取ったりはできるだろうとしても)、それを差配している政治家の人や知識人が、そういうトレードオフ構造に敏感だったり、それを大衆に認識させようとするのは、仕方のない側面もあると思う。 日本社会での「不合理なルール」って、「ルールに公然と文句を言ってくる人がいたら、それは協調性が(日本社会で要求される水準より)低く、面倒事を引き起こしやすい人であるサイン」という検出センサとして運用されてる集団が割とあって
そういう集団では、みんな「協調性の無いやつと見られたくない」みたいな思いがあるので、ルールが不合理だと思いつつも粛々と従う、ということになりがちで
現状のトロッコでは轢かれない方の人々が「トロッコ問題で考えるな」と叫ぶのは現実の可変性を悟らせないための古典的なイデオロギーによる隠蔽であってというのは「足を踏んでる側は気づかないんだよ」の人々が主張していることと同じことのはずなんですけどね。
社会保障費などについて「トロッコ問題」を持ち出すなという人は、意図的にかどうかは分からないが、現状の維持自体がトロッコ問題の一つの解答であり選択の結果であるという点はなぜか見ようとしない。
それなりに長いこと有権者やってきたのなら、お前も押してるだろう、と。もし言行一致の首尾一貫した義務論者なら今すぐ手を離して憤死でもしないと平仄が合わないし、しれっと押し続けておきながら、「トロッコ問題で考えるなんておかしい」なんてよく言ったもんだ、と思ってしまいますけどね。
交通事故で死者が必ず発生することがわかってんのに、自動車の製造使用を禁止しないのだって、トロッコ問題でしょう。社会にすでに現に無数のトロッコを走らせてることについてトロッコ問題絶許の人はどう考えているのか。
民主主義とは「お前も治者たれ」ということでしょう、と。
トロッコ問題みたいな「悪い考え方」を教えてみんながそれに染まったらどうするんだ!みたいな考え方って、裏を返せば、「そういうのは修練を積んだエリートの統治の秘技なのだ」という鼻持ちならないエリート主義なんですよね。庶民は素朴に義務論を信じていてください、後は我々が考えますから的な。
さらに捻くれると、帰結主義の残酷さから生じる道義的負担感はエリートに預けておいて、俺たちは義務論の立場からがんがん奴らを避難しようぜ!という政権交代なき永遠の「野党」しぐさみたいなことにもなる。
あとまあ、「どんな場合でもトロッコ問題で考えること、まかりならぬ」というのは、あーなるはど義務論の人なわけですねなるほどということ以上でも以下でもないので、個人の信条としては尊重しますが、唯一可能な立場かのように僭称するのはやめていただけないかということになりますね。
サンデルのあれは義務論と功利主義が一致しないケースを際立たせるための仕掛けでは?というのと、何でもかんでもトリアージで考えるなというのと、トリアージがどうしても必要な場面があるというのは別に矛盾せず両立するんでは?というのと。 義務論:
哲学者であり倫理学者であるイマヌエル・カントが唱えた。動機説とも。 不快な判断を強制されたら、それを提示したやつやその考え方そのものに怒りを感じる、というのは、『悪意の科学』的に見れば、完全に人間の本質だし、そのエネルギーを込みで今の社会はそれなりにうまく回っている部分があるので、もうなんとも言えなくなる感じはある。 そういう競争心は人間に普遍的にあるし、それが正義を実施したり、不正を追求するエネルギーになる側面もある。
神の不条理にすら疑問を感じて、技術の進歩にアンテナを貼り続ける、そこへ意思を投資し続けようとするエネルギーとは、確実に同根なので、もうそこも受け入れていくしかない。
日本における「イデオロギー型」の人は定量的センスが杜撰なので、大日本帝国の問題は「壮大に杜撰な計画が現場レベルで悲劇を生んだ」という感じのものが多いわけですけど…
逆にドイツの場合は、「イデオロギー型の人間」が同時に「定量的にちゃんと考える」力を持っているので、尋常じゃない明晰な計画力を持ってユダヤ人を「処理」していくという超ヤバい現象が起きたということなのかなと。
⇒じゃあ、ドイツの人は景気回復も生産力増強もちゃんとやれば良かったのに、という気がするけど、そこが「生存圏拡大」や「民族統一」に、上の人のコンセプトが偏っちゃってたのかね。
育児についておっさんが下手に口出しすると、おっさんであることが影響するから何も言えなくなるよね。
すると、そういうことを考慮しない浅はかなおっさんの意見ばかりが見えるから、浅はかなおっさんが代表してしまう問題がある。
日本の自称「立憲主義者」は、国家に支配欲や所有欲などの人間の悪徳しか見出さない。国家が人間の理性の精華であり、それによって元来粗野な人間どもがなんとか平和で安全で文化的な生活を営んでいけるようになっていることを軽視している。それで無責任な反権力ポーズで自慰しているのだ。
「科学・医学的には安全で意味はないけど、不安に思う人がいるから隔離したままにしろ」というかつてのハンセン病差別と同じ論理を21世紀になって20年以上経つ現在に繰り返す許しがたい存在が朝日や日経や毎日や共産党
中国は処理水を安全だと理解してて、その上で全面禁輸を政治カードとして使おうとしている訳でしょ。仮想敵国の国内世論を不安定化させ、あわよくばレジームチェンジを狙うっていうのは露が米に、中国が台湾に向けて長年にわたってやってきた常套手段なので、今更真面目に取り合う様な話じゃないわな。
推薦者です。
何かと軽んじられることの多い「主観」(感想)こそ、研究の、そして知のはじまりである。
「主観」と同伴しつつ、いかに研究を進めていくのか、研究コミュニティを見つけ繋がっていくのか、
手取り足取り、実に丁寧に扱われています。
FOODIT TOKYOで私が講演したことの繰り返しだけど。
日本のネット炎上ではフードロスなど飲食業では当たり前に発生する出来事でも一般に向けては伏せたほうが良いことが存在する。
特に「米を捨てる」「米製品を粗末にする」は宗教を信じない日本人でもタブーあつかいなので迂闊に廃棄と書いたらダメ
🎉研究費を投資する側から投資総額に対しての研究成果創出効率を見ると、500 万円以下の少額研究費を多くの研究者に配る方が、より高額な研究費を限られた研究領域の限られた人数の研究者に配るよりも効果的であること、が明らかとなりました。🎉
それはそうだろうという結果。長時間のスクリーンタイムが発達障害の原因と断言し親を不安にさせる専門家は殲滅されたし
「子どものスクリーンタイムが長い事は、ASD の体質に関連しており、原因ではなくむしろ早期兆候である可能性。長年原因ではないかと議論されてきた」
⇒“画面を見せてると、社交が苦手になる(雑まとめ)” ではなく、そういう特性の人のほうが、画面にのめり込むことができる、ということか。
⇒だから、見せすぎを親が気に病む必要はない。
⇒とはいえ、子育てからすると、それぞれの年代で人付き合いスキルや耐性、成功体験を随時蓄積しないといけないし、“本質的に苦手” というならなおさらそうだし、「画面を見ることしかできない」ようでは困ってしまうし、それの拡大再生産は止めないといけないし、まあやっぱり悩みは終わらない。 結局、それぞれが処罰感情や正義感を少しずつ抑えることでしかSNS時代における平穏って実現されないのではないかと思う今日この頃。
⇒もはや、「“怒り”を抑える」「恨みを抑える」だけではなく、「正義を抑える」とか、そういうことすらが必要かもしれない。この民主社会×情報社会では。
最近、読書猿さん経由で田野先生のツイートをよく見かけますが、何も言われなくても本を読む人ならばわざわざ指摘するまでもないことでも、SNSの場ではこつこつ言及することが大切なのだなとちょっと考えさせれます。