2023/07/08-2023/07/14
何が正義か分からないから調停する
いるかいないかでいうならいるんだろう
世界についてしると充実するのは、生存の回路なのだろう
子供のテスト勉強用プリント
『世界でいちばん透きとおった物語』
⇒あれ? なんか気づいちゃったかも? いや、藁人形であって、これが大したオチじゃないことを祈るが。(5章まで来た)
⇒7章まで来た。あれ? なんだこの本の文字の並び。なんかパラパラ漫画みたいだ。
▷読了済。
▷pic.twitter.com/3KS44qzo7z
▷本筋と関係ないけど、前書きも序章も目次もなく始まるのが、なんか潔い。 それと、妙に文字が詰まって感じる。改行が少なく見えるというか。 閉じ鉤括弧を含めて、句読点がきっちり一行の最後の文字に来ている箇所がすごく多くて、余白が少ないんだな。
▷おすすめを見かけていた『世界でいちばん透きとおった物語』を読み始める。 とりあえず一章めまで。
▷やればできるはできないのと一緒、やってできないほうが、やっている分まだえらい
▷鉄板焼きになりそうな熱
▷@rashita2 なるほど!
▷@rashita2 along withが正ですかね。
▷@rashita2 これ、alone と along は、変換揺れとかじゃなく、どちらも意図的な表現ですかね?
▷@0_saka 子供も放置しておけばどこかでやり始めるとは思うんですが(一夜漬けとか)間違いなく、本人の望むクオリティーと、エンジンのかかり始めた残り時間が3倍くらい開きがあって、始めた時点で詰んでる的状況になるのがだいたい見えるんですよね。 それで焦ったりキレたり泣いたり当たったりするなよ、と。
▷子供の頃は、ここで何を書いているのかが分からなかったけど、大人になると分からなくもなくなったし、子育てしているとこれになっちゃうんじゃないかという不安は抱える。 pic.twitter.com/tgWBrOOniA
ド「どうでもいいけど、ゴロゴロばっかりしてていいの?」
の「さっきから、それでなやんでるんだ。
宿題は、あるんだよ、どっさり! やっておかないとまずいんだ。
いつも、ママにどなられてやるのが、くせになってるから…。
ド「どこへいくの。」
の「ちょっと。」
(呼び鈴の音)
マ「なんだのびちゃんじゃないの。
マ「いつまでもうろついてないで、宿題やりなさい。」
の「やっとやる気になった。」(取り掛かっている)
⇒おもしろみというか、場面の意味は、“夏休み最終日になって慌てて宿題をやる” 締め切り効果みたいな、外的要因や他者性によってしか、精神的負荷のある物事に取りかかれない、人間のワンシーンを描いている、という感じなのだろう。
⇒ただ、それなら「くせになって」いるという表現が微妙だ。
⇒「どなられてからしかやってこなかったから」とかそんな感じじゃないだろうか。
⇒プラス、“怖いからやる” ということは、“本当はやりたくないと思ってる” ということで、だったらやめたらいいんじゃないの? 家出して一人暮らししているということなら、ってことも思ったかもしれない。
原則と例外を分けて、順序立てて手順を簡潔に書く、というのは、やったことのない人間には難しいのだろう。
マニュアル作成研修やマニュアル作成のマニュアルがあり、簡単なものから作成してみて、訓練を積む必要があるのかも。
⇒原則だけを書くと、すごく簡単なことみたいに見えたり、きれいごとみたいになったりするんだよね。
⇒実際の作業の大半は、例外事項への柔軟な対応の部分に注がれていたりするし、いろいろ誤魔化しで乗り切る裏の事情もあれこれあったりする。
横山光輝 三国志あるある
顔がコロコロ変わるモブ扱いの曹操の軍師
(吉川英治の原作の方から台詞を推量)
郭嘉の場合
横山光輝 三国志あるある
顔がコロコロ変わるモブ扱いの曹操の軍師
(吉川英治の原作の方から台詞を推量)
荀彧の場合
山下達郎と坂本龍一って同世代かな?
今回の一件で思ったのは、政治的な意見としてはズレしか感じなかったが、それでも責任を負うという姿勢では坂本龍一の方が真っ当な大人だったなあと。
山下達郎に限らず、糸井重里とか、内閉的というか、外は地獄なので自室に閉じこもって、身の回りを自分の好きなものだらけにする、そこに執着する、というあり方は、1980年代から90年代にかけてとてもカッコよかったんだろうな、という気はする。旧弊な社会と学生運動の両方への反発だったんかねえ。
⇒「その頃にはそれが格好良かったんだろうな」というのは、すごくフェアな視点だな。
⇒バブル期の消費翼賛や、高度成長で尻を叩かれることへの忌避だったのではないかと予想するけど。
⇒「悪趣味」よりはマシだったんじゃないかな。
原稿がうまく進まないときに、てきとーに開いてあるPDFを読むことがあります。何かしらの論文のPDFです。
あきらかに脱線であり、好ましい行為とはいえないのですが、進まないのだから仕方がありません(ひどい開き直りだ)。でもって、そういうときには多少難しい論文でも意欲的に読めます。試験勉強中だと掃除が捗るというのと同じ構図です。
知識が欠けた状態で論文を読みはじめると、あれやこれやと読みまくらなければならない。
で、そういうことをつぶやいたら、Go Fujita さんにそういうのがまさに論文を読むことなのだ、と言ってもらえました。私が知識不足である側面は間違いなくありますが、そうでなくともそうやって芋づる式に読み進めていくものなのだ、と。
もし、そういう経験によって世界が構成されているならば、そこでの「知識」は他の知識によって支えられているものだ、という認識になるでしょう。独立的ではなく連関的に存在するのだ、と。
「不要不急」なものがそぎ落とされた日常は、それまでの日常とまったく変わっていないように感じられながらも、本当は大きく変質してしまっているのだと感じます。単に慣れたから何も変わっていないように感じているだけなのです。
皆さんはいかがでしょうか。この2〜3年の間に失われてしまったものは何かあるでしょうか。ずっと意識してきたものではなく、そうなっていることに気がついていなかったものは何かあるでしょうか。
例えば、私のように“痴漢に遭って女として認められると勘違いする10代の子がいる”っていう事実がある。ただ、フェミニズムの文脈というか、“正しい女性はこうあるべき”みたいな観点で言えば、『痴漢は全て害悪で、全ての女性にトラウマを残す。痴漢で喜ぶ人なんていない!』といった論調になりがちですよね。確かに、私があのとき、『生きててもいいんだ』って思ってしまったことは、今思えばかわいそうだと思う。でも、『そのときはそう思った』とさえ発言できない空気感になってしまうことがある。『そうか! 痴漢をすると女は喜ぶんだ!』とアホな理解をする男がいる可能性を考えて、『痴漢で喜ぶ人なんていない』と、あえて解像度を低くした論調にならざるをえない。
稲田 それを聞いて思うのは、日本で興行の二極化が進んでいるということです。興収100億円超の超大作・話題作が上位を独占する一方、アート映画を含む小品が山のように公開され、その多くは存在すらほとんど知られずに公開が終了する。そして、その中間にある作品の印象が昔に比べて薄い。経験を積んだ実力派監督がそれなりの予算で作った良質なドラマ作品の興収が、思ったほど伸びなかったりする。
映画を評論する側としては、皆が観ているメガヒット作である『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』について何か言う――のもひとつのアプローチですが、本当はもっと多くの「中間の良質作」にスポットを当ててしっかり論じ、観客を広げていくことをやりたいんです。ただ、それができる媒体が減っている気がする。無論、それでも頑張って書けばいいのかもしれませんが、映画評の原稿1本の原稿がいくらか、って話をすると……。
宇野 冗談みたいな金額ですよね。仕事上の糧になる取材とかはまた別ですけど、もうカルチャーに関わる原稿仕事は、自分の感覚的には限りなくボランティアに近いものだと思ってます。被扶養者とかだったら別なのかもしれませんが、他に収益が見込める仕事を持っていないと続けられないでしょう。
宇野 あれは意図的なものではなかったんだけど(苦笑)、炎上も4回、5回と繰り返すと慣れます。さすがに味方がまったくいない「0対10」の炎上だと心折れちゃうんでしょうけど、「2対8」くらいの炎上だったら、それを通していろいろ可視化できるので、面白いなって客観的に思っちゃってますね。批評家には、社会のリトマス試験紙のような役割もあると思うし。まあでも、たまにでいいですけど(笑)。
いわゆる「トキシック・ファンダム」の問題
<『RRR』も『トップガン マーヴェリック』並みに面白いです、観てください>っていうリプライが必ずつくんです。
稲田 え? 宇野さんはとっくに観てるんですよね?
宇野 もちろん、日本公開の何ヶ月も前に観てます。だから、何の冗談なのだろうと思ってその人のアカウントを恐る恐る覗いてみると、『トップガン マーヴェリック』について呟いてるいろんな人に、自動投稿のようにそういうリプを延々としてるんです。「推し活」の最終形態というか、もはや気持ち悪さしかない。
たとえば、多くのファンがいるジャニーズのタレントが出演している映画を観て好意的な感想をツイートする際、そのタレントの名前がツイートに入ってるだけで、ファンからの「いいね」や「リツイート」が爆増することを、彼らは心得ている。
「自分のツイートに影響力があるように見せるには、ファンダムに媚びるのがいちばん早い」ということを、特に日本映画について書いているライターは皆、了解済みだと思います。
あの手のツイートの伸び方を知らない人はいないでしょう。たまにあれの中毒みたいになってる人を見ると、共感性羞恥みたいな感情になってしまいます。
稲田 そこまでして、皆から「いいね」や「リツイート」してもらいたいのかと?
ネットではいまいちでしたけど、リアル書店の初動は好調でした。お金を出して本を買う層と、ネット上で「いいね」をしたり「リツイート」している層は、もともとあまり重なっていなかったけれど、近年はそのズレがどんどん大きくなっているという実感があります。
宇野 きっと我々は、Twitterで可視化されてない人たちに向けて本を書く必要があるんですよ。
⇒ある種、「ネットにいる人での民主主義」を望む気持ちの逆写しだな……
過去の名作のリバイバル上映とか、特定の監督の特集上映に行くのって、シネフィル的な態度に捉えられがちですが、見方を変えれば、“絶対外さないリスト”の作品だけを選び抜いて観る「にわか」的ふるまい、とも言えますし。
稲田 なぜ映画の興行収入が二極化しているかと言えば、「皆が観ている映画」を観たほうが、その話題で盛り上がれる相手の人数が増える。コミュニケーションが捗(はかど)る。いわば「コミュニケーションコスパが高い」と考える人が多いからですよね。
宇野 周りの人と話を合わせるために映画を観るとかって行為に対して、批評家とかはわりと冷ややかにとらえがちですけど、いやいや、「それって映画の重要なファンクションですよ」っていう。そういうことがなくなった時が、本当に映画文化が終焉する時なんだろうなって。
⇒なくなったら、むしろ終わる……。そうかもねえ。
自分は映画館でバイトしていたこともあって二十歳そこそこからマスコミ試写に出入りしていて、当時はもちろん最年少でしたが、それから30年経って50代になった今も、作品によっては周りを見渡すといまだに自分が最年少なんじゃないかって思うことがあってびっくりする。
あとは、これまでの映画の枠組みを超えていく映画が出てきている以上、映画というジャンルの「外」の人が映画を論じるほうが実はいいんじゃないか、とも考えます。つまり映画評論やライティングを生業にしていない人が、その人が属する分野・領域での知見や知性をもって映画を語る。
いわゆる映画ファンとかシネフィルと呼ばれる人たちって、どんなに作品や現在の映画業界を批判的に語っても、最終的には「映画という体験が好き」「銀幕が好き」といった「内」向きのロマンに着地しがちですよね。でも、宇野さんは、それだけではないところに出口を見出そうとしている。映画の「外」に出て行こうとしているし、本全体を通じて、映画を観ていない人にも届くように書かれています。
⇒衰退産業(紙の本とか)に対して、“内向きのロマン” 以外の方法で擁護するのって、難しいと思う。
いらないと思われてるから、衰退していってるんだし。
宇野 あのページはオンライン(KINENOTE)でも読めるので、そのリンクを自分のTwitterで拡散したら、もしかしたらちょっとは波風が起こせるかなって。あの時期、本当に映画界全体が凪の状態になっていたじゃないですか。
稲田 手応えはありましたか?
宇野 いや、失ったものの方が多いですね(苦笑)。
批評は普遍の拒否から出発するからだ。それは柄谷が普遍と特殊の対から逃れる「単独性」において初めて共同体の外にいる〈他者〉との出会いが可能になると述べたことにもっともはっきりとあらわれている。だからこそコミュニケーションの条件はたんに論じるだけでなく、作り出さなければならない。
それは同じことの「反復」であるかも知れない。だが、私にとっては、それはそのつど新しい経験である。書くことが生きることであるということを、私ははじめて実感している」(*1)。
これは『探究I』のなかで、〈他者〉に向けた「命がけの飛躍」として語られることと響き合っている。書くこととは、自分をまったく理解しないかもしれない〈他者〉に己を投げ出すことであり、それが生の条件である、うんぬん。
他者と関わらねば生きていけないわけで、書くことこそが生きることだというのは強弁である。意地悪な言い方をすれば、〈他者〉を無限遠点に置いている限り自分の言葉が届かなくても、その失敗は約束されているのだからこちらが傷つくことはないのであり、その決断主義的なトーンとは裏腹に柄谷の理論は、自分が傷つく可能性を排した非常に防衛的なものにも見える。
ともかく、僕がおもしろいと思うのは、書くことこそが生きることなのだと言っても、書くこと以外をしなければ生きられないわけで、生きる意味を代表したり生活の一部になったり、その両者を揺れ動くことに書くことの本質があらわれているように思われることだ。超越と内在と言ってもいいし、メタとベタと言ってもいいし、パフォーマティブな宣言とコンスタティブな記述と言ってもいいと思うが、連載であれ日記であれ機械的に区切られたペースで文章を書いているとどうしたってそのふたつをパタパタと交代させていくことになる。
彼は一方で個別的な作品なり事件なりから社会全体にとっての意味を引き出す古典的な批評は、もはやひとつの「パフォーマンス」としてしか機能しえないと指摘する。つまり「あえて」全体性を狙う身振り自体が昔ながらの批評を求める特定の読者層を喜ばせることはあっても、それが実際に全体的な効果をもつものになるとは、そもそも書いている本人が信じていない。
それにしても、仮にも食べ物の配達を「ドロップ」と呼ぶのは、ちょっとあんまりなのではないか。料理は「ドロップ」されるべきものではなく「サーブ」されるべきものだ。
実際の料理は冷凍食品を解凍しただけのものだったり、タチの悪い商売をする店の問題も取り沙汰されている。ホストとゲストが隔たったふたつの点として切り離され、配達員は一方でピックし他方でドロップし、店はゴースト化・バーチャル化し、サービスは消失する。
しかし郵便的なものと置き配的なものとのあいだには、物理的なポストの有無とは別にやはり区別するべき点があるようにも思われる。郵便的なものにおいては、「届ける(届く)」という事実が、差出人にとってはポストに投函する瞬間に成立し、配達員にとっては受取人のポスト(郵便受け)に投函する瞬間に成立し、そして受取人にとってはポストで郵便を手に取る瞬間に成立し、それぞれはさしあたり自身にとっての「届ける」の領分に閉じ込められている。その外に出るためには、たとえば差出人がもう相手のポストに届いている頃だろうか、あるいはもうポストには届いているがまだ受け取ってはいないだろうかと思案するように、仮想的な時間のなかに身を置かなければならない。
これは東が言う意味での「郵便的」という概念とも整合的に理解できるだろう。「誤配」とは事実上のミスというより、遅配と誤配と遺失を区別できない悩ましいゾーンが事実上必然的に存在することを示しているだろうからだ(※5)。
「佐川男子」という言葉はその実直な代補者への大衆的な好感を指し示している)、他方においては代補者にすぎないという理由で謙虚に隠れていたのだった。それに対して置き配的なものにおいては、配達員はもはや代補者ではなく、つまり郵便的なものにあった届けるという目的と投函するという代補的な手段の分割が消失し、置くことを直接的な目的としているように思われる。届けるかわりに置いているのではなく、置いたという事実を持ち帰るために運んでいるかのような。
つまり、差出人、配達員、受取人というそれぞれのポジションにおける事実の領分の限定によって呼び起こされる「郵便的不安」をメタデータの共有によって悪魔祓いするとともに、置き配的なものはそれぞれの立場の者が自分以外の者の立場に、あるいはその時間に、そろそろ投函されただろうか、そろそろ受け取っただろうかと仮想的に身を置く必要性も一緒に排除するのだ。これはちょっと踏み込んで言えば「責任」の終わりである。差出人の責任は受け渡しとともに終わり、配達人の責任は置くと同時に終わるが、われわれはこのふたつの責任の識別不可能性をこそ責任と呼んでいるのではないだろうか。
こうした状況について東は、「大きな物語」の崩壊とは、つまるところ思想や宗教や国家などの大きな物語そのものが消失することではなく、そうした物語をある個人において、あるいはあるクラスタにおいて信じるのは勝手だが、それをベタに普遍的なものとして強要することは禁じられているという二重性を指しているとまとめている。理念は趣味としてしか認められなくなっている。
東が求めているのはふまじめな読者がいつのまにか誤配によってまじめになることであり、いつまで経っても東を動画上の喋りのおもしろいおじさんキャラとしてしか消費しないような一貫してふまじめな、あるいはいつまで経っても彼に第二の『存在論的、郵便的』を書くことを期待するような一貫してまじめな読者に取り囲まれるたびごとに断筆を語り、そのようにして彼は新たな誤配可能性の場に飛び移る。
これ、不機嫌を撒き散らす側がそうさせるようなニュアンスで語られがちなことですが実は機嫌取りに動く側が「自分がその人の機嫌をコントロール可能である」という感覚があることも大きな要素のひとつなんですよね。
そもそも、たいていの人は宗教や慣習や文化も親から受け継いで、それを自分の信念にして生きている。宗教戦争とかも、おそらく根底では親や血族を侮辱されたという怒りが主だろう。だって神様は本当にはいないので。
スーパーロボットで宇宙人や恐竜と戦うアニメと違って、軍事的戦争としてのガンダムはリアルだと言われる。
しかし、それはそれで「軍事的戦争の戦記の歴史という既成概念」というオールドタイプ思考による受容なのではないだろうか?
ガンダムファンはたまに「サイコミュやニュータイプに頼らない、リアルで泥臭い本物の軍人が出てくるアニメを見たい」とか言う。それは、理解できるパターン、知っている様式の枠に当てはめて、その中に囚われているだけなのでは?
「死」や「戦争」は脅威判定が高い。なので、「死」や「戦争」、そして軍事やら兵器のスペック、政治的な敵味方の知識が豊富なミリタリーマニアは「現実に詳しい」と自己認識したり、平和を訴える人を「脳みそお花畑」と侮蔑したりする。
しかし、それも太古から人間同士で殺し合って奪い合っていた人間の本能という既成概念に沿っているだけの、自動的な反応に過ぎないのかもしれない。
どちらかというと富野監督のファンとしてアマチュア同人作家からプロ漫画家になったゆうきまさみ先生の後藤隊長の「みんなで幸せになろうよ」という方が好き。
ただ、後藤隊長が「警察の仕事はいつも手遅れ」というのは、富野監督の政治思想より一歩引いていて、「争いが起こらないように人間を進化させたい」というのが富野監督の考えなのだろうと思う。同時に、それはちょっと理想が高すぎるとも思う。