2022/12/11-2022/12/20
#採掘場
根源善、必要悪、不純善、
「不可能善」ってのもありかも。到達不可能善、とか。
『ぼっち・ざ・ろっく』、「推す」なんて他者を意識した動機を持てないレベルで、深く刺さっているし深く揺さぶられているし、依存している。
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https://president.jp/articles/-/63967?page=3
管理職がほしいか聞いてみた。答えはイエスだった。
理由を尋ねると、
「何かを学ばせてくれる人や、議論に決着をつけてくれる人が必要だから」
https://toyokeizai.net/articles/-/638502?page=4
取り組みを通じて浮上した課題もある。スナックの従来の客は中高年の男性だが、女性客を呼び込もうとすると、情報発信やメニューの改善以外にも、抜本的な改革が必要になる。たとえばトイレが男女共用で、水回りが老朽化しているスナックも少なくない。30代の女性参加者は、「お手洗いの居心地が良くないとリピーターにはなりづらい」と率直な感想を漏らした。
今回の事業は、信州千曲観光局に加盟している19軒のうち15軒が参加しているが、前述した通り温泉街にはスナックが約80軒あり、売春をあっせんする「連れ出しスナック」の集積地として密かに知られるエリアでもある。路上には客引きもいて、女性の個人客が歩きづらい雰囲気も残っている。
https://bestcarweb.jp/news/business/558192
日本全体の「賃上げ」を達成するためには、この(労働人口のうち「賃上げに関する話し合いの場」に立つことができていない)70~80%の人たちに、どう影響を与える活動をしてゆくか、ということだとわたくしは考えております。
正直申し上げまして、継続的に昇給している会社って、かつて(マスコミから)褒められたことがありません。メディアの皆さんも、年始の賀詞交換会から「今年の賃上げはどうなりますか」、だとか、あとは「どこが満額か」、「そうでないか」という報道ばかりになります。この点について、マスコミ各社もぜひ「動き方」を考えていただきたい。
いま、日本において広がりつつある「格差」をこれ以上広げないためには、中間層を中心に「みんなにどう働く場を与えていくか」だと考えております。そのために、何をどう報じるのか。
https://twitter.com/hidarumakun_kai/status/1601357871341785089?s=21
ガンダムSF論争は、従前「ロボットプロレス」と揶揄されたロボアニメにリアル(風)作風や考証を本格導入したため、「SFの域に届いたか否か?」が俎上に上がってきた感じだったかしら。
ガンダムファン(届いた!)vsSFファン(及ばず!)
の構図。まあ、当時は今よりSF界隈の権勢が強かったのもあるかな。
⇒“月は無慈悲な”、や“戦士”がSFなんだから、これもSFでいいじゃないか、という気もするけど、設定のインパクトが後景にしりぞいてしまっているから、その意味ではSFっぽい味わいではなくなっていたのかもしれないね。
人物劇であり、戦争ものとしての味わいのほうが強くなってしまっている。
でも、逆にだから、文学とか児童文学とか、そういうエリアにいったんじゃないかという気もする。
https://note.com/rashita/n/neefb992bea21
たとえば、YouTubeだったら一年経つと半分どころか10分の9くらいは顔ぶれが変わっていそうな気がします。逆に書籍なら売れっ子作家の顔ぶれは一年程度ではほとんど変わらないでしょう。
クラッチは動力伝達装置のことですが、「伝達」を担う装置だからこそ、それを「切断」できるというのは逆説的なようでいて本質的な話でしょう。
でもってその中身は「ギアボックス」です。複数のギアの組み合わせ。なかなか示唆的ではありませんか。ここに奥出直人さんの『思考のエンジン』という書名を加えるとさらに連想が膨らんでいきそうです。
動力源があり、動力伝達装置があり、変速機があり、車輪があり、それぞれが異なる役割を持って、一つの目的に従事している。
未完成・未成熟なものはそのままでは使えないので、育てる必要がある。理屈としては通っています。
しなしながら、これは半分しか答えになっていません。なぜアイデアを育てる義務が生じるのかについては空白なのです。言い換えれば、未完成なものであっても、そのまま放置しておいてよいのではないか、という疑問には答えていません。
やらなくても生活に支障はありません。私たちの「日常」はアイデアが欠落したくらいで壊れるほどやわではありません。
ちょっとしたアイデアでは変えられない日常を変えるうえで、ちょっとしていないアイデアへの育みが役立つのです。
とは言え、注意は必要です。
日常的に未成熟なアイデアを成熟させておけば、それがストックとなって、日常が壊れてしまったときに役立つ、というわけではありません。もちろん、そうしたこともゼロではないでしょうが、そういう「先回り」はあまり役立ちません(日常は予測できない形で壊れるのでした)。
https://www.nhk.jp/p/ts/GV37P3QRV4/blog/bl/prAM3NPgLr/bp/pLEzDPBgV8/
僕たちの仕事はエンタメなのだと。報道でもドキュメントでもなく語り部でもありませんので、他でできないことをやらなければいけないと思うんです。だから楽しい映画をとにかく作りたい。椅子が走り回って、猫を追いかけて、扉をすごくかっこいいアクションで派手に閉めて、そのテンポ感でどんどんどんどん物語が前に進んで行くような、次どうなっちゃうんだろうと、わくわくするような話にしたいと思いました。
https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/pvqdx5GOng
「もしも私があなただったら」という、自分が被害の当事者だったらと考えたことを、アニメーションの中でそのまま描きました。
⇒だから入れ替わりなの?!
『すずめの戸締まり』をつくろうと思ったときに最初に考えたのは『君の名は。』や『天気の子』の語り直しという動機ではありませんでした。最初にやりたいと思ったのは、今の日本を舞台にしたアニメーションならではのわくわくする冒険活劇をつくりたいと思ったんです。ロードムービーにしたいなと。
じゃあ、どういう旅が今の日本でできるんだろうと考えていったら、わくわくする新しい世界が広がっていくという発想がどうしてもできなくて。日本はこの先はどうしたって人口減少が待っていて、経済も少なくとも中短期的には小さくなっていきますよね。
なので、今のこの日本を移動していく話にしようとしたときには「この場所はかつてはこういうものがあったんだよ」「かつてはもっと人がいたんだよ。かつてはにぎやかだったんだよ」という世界しか描けないなというふうに思ったんです。かつてにぎやかだった場所の、そこにあった声とか生活のことを想像しながら旅をしていくというのが、今つくることのできる冒険ものなのかなというふうに考えました。
これがみみずくんじゃなくて龍とかだったら、僕たちが受ける印象がだいぶ違うと思うんですよ。
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――ちょっと遠いものというか。
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新海:
そうですね。ハイファンタジーというか、少し遠い物語になっちゃうような気がします。でも、それがみみずくんとかえるくんだからこそ、何か隣にあるものとして読むことができる。
⇒このへん、ドラクエに慣れちゃった世代と群だけ、ちょっと感性が違うかも。
昨日(2022/12/12)やってたクロ現で、新海誠が出ていた。上のリンクも、別の形の文字起こしで、同じ内容に触れている。
で、番組を見ながら、その字幕をベースに3箇所ほど文字起こしを下記にメモする。
いい声だった。
訥々とした語りかたなんだけど、ところどころ高ぶる感情のせいか、かすかに上ずる声のスパイクが感じられて引き込まれる。
あの時に、僕たちが みんな素朴に感じた
あんな出来事、分かっていたら なんとか止められたんじゃないかとか。
みんなが被災者であろうと 当事者でなくても
願ったわけですよね。
生きていてほしかった というふうに。
それを映画の中で、そのままに描いたつもりだったんです。
でも、災害をなかったことにする映画であるというふうに言われて
⇒『君の名は。』は、歴史改変的なモチーフにとは言えるからね。
腹も立ったんですけれども でも、いちばん強く思ったのは
なんて自分は映画の語り方が 下手なんだろうと。
思っていたことが 全く違う伝わり方をしてしまった というふうに思いました。
キャラクターに 感情移入させることが もっときちんとできさえすれば
災害に遭った人になったような気持ちにさえ 観客をすることができれば
もっと違う感想を持ってくれた はずだと思ったんですよね。
災害に関していえば
寄り添うとか励ますとか慰めるということが
作品でできるとはやっぱり思っていないんですね。
でも、できると思っているのは やりたいと思っているのは
共感させるということはできると思うんですよ。
感情移入してもらう ということはできると思うので。
自分はあの場所にいなかったけれども
あの場所にいたとしたらどうだったろうと。
それがエンタメとしてうまく機能すれば
あのころ無関係だった多くの人が映画を見てる最中に
鈴芽になることができたんじゃないかという気はして。
それが、実はエンタメにしかできないような何かを考えることなんじゃないかな とは思うんですね。
そのための能力のようなもの 語る能力のようなものが欲しくて 欲しくて、もっと向上したくて
そこは止まらないというか
それが欲しいですね、僕は。
⇒この、無闇に力を求める感じ、若くていいな
⇒“物語る営為に対してピュアに殉じている感じ” や “力があれば、もっと、思ったことをその通りに伝えられるはずなのに” という、意気込みが迸っている感じも、いいよね。
⇒もちろん、私は「人間の共感能力やその範囲は不完全で、そんなものに頼っていると、かえって民主主義の機能を低下させてしまう」というような概念もすでに持っているので、“共感” て文字列が出てくることに、当然警戒というか侮蔑というか抵抗というか、不安も感じる。もやもやと。
⇒私も、常に力は欲しい。
⇒しかし、そう考えると、セカイ系的な意味で災害を起こしていたり、人が死ぬ中でそれを受け入れさせられる葛藤というものを描いていたわけではないわけか。あくまで、2011年以降の心象風景として、3作描いてきたと。
⇒そう考えていくと、この人は今後、色々なマイノリティーを随時取材しながら、主人公にして物語っていく作者になるのだろうか。
⇒個人的には、「感情移入に頼らないで物語を作りたい」みたいなことを志向しだす人よりは、その活動をたぶん好もしく思う。
⇒ちなみに私は『天気の子』はひいきしていこうと決めている。「ハッピーエンド原理主義」者だしね。バッドエンドが楽しめない
『「社会正義」はいつも正しい』についての、いくつかの雑感 - 道徳的動物日記
とくに英語圏の本では、なんらかの議論や理論を提起することを目的とするものであっても、あれこれとデータや実例や書籍や論文が紹介されていることが多い
(中略)
そして、読者は紹介されている実例や論文の内容などについて知ることで知的好奇心を満たしたり驚きを抱けたりするなどの「おもしろさ」を感じられるおかげで、長い本を読み進めていくことができて、「まじめな議論」のほうにも付き合っていけるのだ。
⇒ああいうのって、長さによるダレを緩和するための、サービスのつもりだったの??
特定層の読者を課金に誘導して限定公開記事を書くことへのインセンティブが生じてしまうnoteの影響力が増したこと、などなども原因になっているだろう*3。
*3:何度も書いてきたが、noteのシステムは「公論」の形成に資するものではなくむしろ「公論」にとって有害である、とわたしは判断している。
一つには、新しく過激な答えにはある種の魅力があるのだ。人々はそれに興奮するし、特に世の中が悪く思える場合にはなおさらだ。大きくて目前に迫っているように見える問題には、革命的な新しい解決策が求められるように思える。人々がたったいま苦しんでいるときには、漸進的な改善はどうしようもなく遅いように感じられる。いつもながら、完璧は善の敵だーーよい仕組みはとっくによい結果をもたらしているべきだという非現実的な期待もそうだ。これは急進主義や専制主義、原理主義、シニシズムを招く。だからこそ、<理論>は魅惑的だーーそれはポピュリズムも、マルクス主義も、その他紙の上ではよさげに見えるのに実際には大惨事をもたらす、あらゆる形のユートピア主義も同じことだ。
これは単に「いいえ、それはあなたがイデオロギー的にそう思っているだけですよね。別に私がそれに従う必要はありませんよね」と言うだけですむ話だったりする。
・人種差別はいまも社会問題だし、対応が必要だというのは認める。
・批判的人種<理論>や交差性が、その対応の最も役に立つツールだとは認めない。人種問題は、可能な限り厳密な分析を通じて解決するのが最もよいと信じるから。
・人種差別は、人種に基づく個人や集団に対する偏見や差別的行為として定義されるし、そのようなものとして対応するのがよいと考える。
・人種差別が言説を通じて社会に焼き込まれているとか、それが避けがたく、あらゆるやりとりの中に存在するからそれを見つけて糾弾すべきだとか、それがいつどこにでも存在し、あらゆるところに充満した偏在する制度的な問題の一部だ、とかいう話は認めない。
・各人は、人種差別的な見方をしないという選択ができるし、またそうなるよう期待される。それにより人種差別は次第に低減し、珍しいものになり、お互いをまずは人間として見て、ある人種の一員かどうかは二の次になるだろうと考える。人種問題は、人種化された体験について正直に述べることで対処するのがよく、その一方で共通の目標と共有されたビジョンに向けて活動するべきだと考える。
https://news.yahoo.co.jp/articles/396b390f9eb8300ac685a73cb6c5e329f7b63b08
洗練のすえに軟弱化した京都の貴族に対し、草深い坂東の田舎で多少は野蛮だが活力のある武士が挑戦するという図式――大河ドラマをはじめとするフィクションの世界ではいまだに根強い――は、少なくとも学問の世界では、反省を迫られて久しい。武士の起源は京都にあり、その存在形態やアイデンティティーは京都の制度や権威に深く依存していた。最新の研究潮流はそう教える。だが、と本書の著者は反問する。
自力救済が当たり前だった中世の武士と、文明社会にして法治国家に住むわれわれとは異なる。この現代社会で、気に食わないからといって暴力に訴えることは無論、許されない。有害な男性性は排除されてしかるべきだろう。
だが、自分の大事な人が、あるいは自分の心のなかの柔らかい部分が踏みにじられた時、私たちは黙って引き下がるべきなのか。落ち着いて冷静に抗議するべきなのだろうか。本当にそれでよいのか。そういう冷静な人間ばかりで世の中はよくなるだろうか。
ここには「権利のための闘争」として知られる重要なジレンマがある。我々の文明社会ではすべての人にあまねく人権が認められている。だが、人権の行使はしばしば割に合わない。あからさまな不正を蒙っても、反撃しないことが合理的なことは実によくある(だって、あとあとめんどうだし)。しかし、そうした人ばかりでは人権は形骸化してしまう。そう、人権は実は目先の利益を度外視した「舐められたら殺す」の心持に支えられているのである。「武士とは何か」が投げかける問題は、その意味で、私たちの現在と無縁ではない。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20221214/1670971931
私たちの社会がますます安全で快適になると同時に、その安全や快適にふさわしい規範を私たちが身に付けなければならない必要性も高まり、規範から逸脱しやすい個人には行きづらい社会、あるいは規範から逸脱しないよう何らかの治療や支援が必要になる社会は加速すると考えておいたほうがいいでしょう。
しかし今の私たちにとって本当に関心を持つべきは(そして私たち自身が言論や運動をとおしてコミットしていくべきは)、人類とその社会がそういう方向に向かっているかどうかではなく、いつ・どれぐらいの度合いでそういう方向に向かうのか、ですね。「株価はいずれ上がっていくだろう」ということより「株価がいつ上がるのか」が肝心であるのと同様、人類や社会が秩序に向かって加速していくかどうかより、直近の未来において秩序が加速する度合いが早すぎるのか、ちょうど良い速さなのか、遅すぎるのかが問われなければなりません。また、そうした度合いの遅速緩急に対して、私たちは政治や社会とのかかわりのなかで有権者であり、プレイヤーであり、被ー影響者でもあるんですよね。
https://crea.bunshun.jp/articles/-/39513?page=2
テレビ業界の現状をどう捉えていますか?
上出 テレビ、どうなんでしょうね。
渡辺 本当にダメなんだろうかと疑問だったのですが、もしダメなんだとしたらその原因はなんだろうということを確かめるために、私は「ワンダーウォール」以降脚本を書いているような気がします。たとえば本当に数字が見込めるような企画しか通らないのかとか、言論封鎖的な圧力は存在するのかとか。でも今回佐野さんが見事突破されたので、実はその怖がっているものは何かしらの幻想だったということも結構あるんじゃないかなと。
メッセージの「確かさ」も常に気にしています。ただそこは本当に自信がないので、基本的には逃げているかもしれません。「こういうものだ」「こうあるべきだ」ということはなるべく言わないですね。無理に結論を出さずに「現実にこういうことがある」ということに留めざるを得ない。
渡辺 うんうん、わかります。テレビの仕事をしていると、とにかくわかりやすさを求められることが多い。さっさと答えを提示して視聴者に考えさせるなと。でも受け取り手のリテラシーはそこまで低くはないと信じたいんですよね。答えのない問いを自分で解きほぐすことこそ面白いし、心の底の探求や成長につながるのだと思います。さらに誰かと話したくなって対話が生まれたり。
渡辺 ドキュメンタリーの場合は、例えばある人の犯した罪を本当に断罪できるのかどうかは実在の情報量を持って伝えられるところがあると思います。しかしフィクションはどうしても記号なので、私の場合は自分の実感を具現化するしかないんですよね。そういう意味では自分がどう社会や人間を見ているかということが、如実に出てしまうんだろうと思います。
僕と社長の間に何人もの階層があって、伝聞で1個の議題について投げかけたら2ヶ月後にやっと回答がくるという世界でした。しかもその解答は「ダメとのこと」みたいなレベルにまで簡素化されていて、誰がどの段階でどういう理路でその結論を出したのか全くわからない。それはいかがなものかという思いを書きました。
渡辺 大学という舞台は、ある種メタファーみたいなものでした。実際は大学に限らず、政権をはじめとしたあらゆる組織で起きていることだと思います。
https://crea.bunshun.jp/articles/-/39515
みんな「自分とは関係ない人」だと思いたいらしいんです。たとえば被害者が「普通の女子大生」でも、メディアはあえて「ブランドバックをたくさん持っていた」などと書きたがる傾向がある。それはニュースの視聴者が「自分とは関係のない」贅沢が好きな若い女だったから被害にあったのだ、そうではない自分は大丈夫だと思いたがっているからだと。
⇒そうかもしれんし、同意もできるが、最初のままだと、解像度が低すぎて人間である“像”が脳内で結ばない、という部分もあると思う。「たとえ象徴的でなくてもいいから、具体例がほしい)みたいな。説明におけるところの。
教養の定義は難しいですが、いろんなことを学び続けて理解と知識を得ることで、不明なものも受容できるようになるのだと思います。
上出 元来わからないものは人々を不安に陥れてきたから、きっと宗教があるのでしょうね。一概には言えませんが、スピリチュアルなものは人がわからないものに耐えられないから生まれていて、それが今で言うとお金を生んでいるんだろうと思います。
渡辺 うんうん、そうですね。
上出 宗教でお金を稼ごうとしているのと、今テレビがやっていることは僕にとってはすごく近いと思っています。安易な答えを与えることでお金を稼いでいるという点で。
そこで多少鍛えられたので、人間に対するわからなさはある程度受け入れられるんです。ただ、こと経済であるとか自然の危機であるとか、その問題の大きさであるとか、そういう複雑さにはたぶん耐えられないんですよ。
たとえば、「今ここにある危機とぼくの好感度について」(NHK・2021年放送)というドラマで書いた神崎真 (松坂桃李) という役は、物事を単純に考えたいキャラクター。自分はくたびれてるし、難しいことが嫌いなので、なるべく世界は単純であり簡単であってほしいと願っている。あれはまさに自分自身の希望というか、願いでもあるなと思いながら書いたんですよね。
この物語のレイヤーについていえば、誰かが死んでしまうというすさまじい不幸を起点に、主人公たちは正義を実現しようとする。でもその正義の実現の中には自己実現も含まれているし、さらに言えば、商業も含まれています。ある人の不幸をもとに物語が始まっていって、そこからいろんな人の幸福が生まれていくという構造が「エルピス」にはあるわけですよね。
正義を追求することが良くないことだとは全く思わないけれども、ただそこで正義を実現しようとしている世界に、被害者のメリットというのはほぼないんですよ、多くの場合。簡単に言えば、この被害、この不幸をほぼ100パーセント搾取しているという構造がここにある。
上出 物語のもうひとつの層でいえば、今回は実在する事件を下敷きにしているから同じ構造に取り込まれているし、なおかつ同じような事件をエンターテインメントの中で再生産している。それを持ってみんなは飯を食っていて、それは僕も同じです。この、テレビが元来持っている「人の不幸をエンターテイメントにして金を生む」見世物小屋的な構造を、今度こそ示唆したいと思ったのが今回のエンディングの目的なんです。
渡辺 テレビというか、表現がそのまま持っている原罪については私も同じことを思っていました。私たちは基本的に、人の不幸を搾取しながら仕事をしています。しかも、そんなことは見せずに「いいことをしている風」に仕事をしてきてしまっている。
https://note.com/noratetsu/n/nbfdb0a56ca0d
わかる人にわかってもらうためには、わかる人の目に留まらないことには始まらないのだけれど、より多くの仲間に自分の主張を届けるには話題性の力を借りなくてはならない。そうすると当然、わからない人の目にも留まってしまう。強い関心がなければスルーしてくれれば良いのだが、都合よく見逃してもらえるとは限らない。
わかった気になれない程度に面倒くさい言い回しをすれば誤解の発生率も下がると思われるけれど、そうなると必然的に拡散しない。拡散しなければ、まだ見ぬ仲間の元にも届かない。
届けたい人に届けるには、届けたくない人にも届けざるを得ないのだ。届けたくなかった人を経由して、やっと届けたい人に届くということも大いにありうる。
結局は、サロンを形成して同志の間で思想をぐるぐる回していくのが一番平和的で合理的なのかもしれない。そうできるような仕組みが整ってきているように思う。
ただ、そういう場で行われることは「わかり合う」ことであり、自分の言葉を放流するような感覚ではないかもしれない。そもそも、放流するという手段で相性の合う相手に自分の言葉を届けようというのが現実離れした願いのようにも思えてくる。ガラスの瓶に手紙を入れて海に流すくらいにファンタジーだと思えなくもない。
https://noratetsu.blogspot.com/2022/12/control-output.html?m=1
しかし、「書く必要があるものかどうか」で判断してしまうなら、最初からそんなものなどない、ということにもなってしまう。ブログやSNSに「書く必要があるもの」なんてない。
「必要」では測ることができないだろう。しかし反省をするとなると「必要なかった」が出てくる。じゃあどこまでなら良しとなるのかは曖昧である。多分、無意識下で他の尺度で測った結果納得できていないから、身も蓋もない「必要なかった」という結論に至るのだろうと思う。
TPO的な観点で「適切でないかもしれない」と感じることもある。しかも、個別の投稿の是非に留まらず、「そもそもTwitterでこういう話をするのはどうなのか」みたいな規模でそう感じる。じゃあTwitterではどういう話をすべきなのかはこれまた曖昧だ。他の人々と照らしてみても、各々好き勝手にやっているわけで、あらゆるやり方が「あり得る」ことになる。
芸能人でも作家でもないし、他の何らかの職業を看板にしているわけでもない。むしろ明らかにしないことを貫くつもりでいるので、純然たる「個」「私」である。何も代表しないし、何も背景に持たない。となると、その分基準にできるものもないということになる。自由過ぎて、引くべきラインが「人として」というところまで広くなる。それは本当に最低限のラインだが、それ以上は客観的な根拠なしに決めなくてはならない。
【 #ゲンロン友の声|027 】子供が生まれてから本を読む気になれません - webゲンロン
けれども、いまは別の見かたもしています。ぼくはさきほど、最先端の研究に追いつけなくなった、ゲームもできなくなったし、映画や展覧会も行けなくなった、それが悩みだったと書きました。当時の感覚としてはそうだったのですが、いま振り返ると、本当のところは、追いつけなくなったのではなく追いつ「か」なくなった、できなくなったのではなく「やらなく」なったのだし、行けなくなったのではなく行「か」なくなった──つまりは、そもそも子どもが生まれたことにより関心や興味が変わり、子どもが生まれるまえに大切だと思っていた多くのものが「どうでもいいもの」になってしまった、それこそが悩みの原因だったのではないかと思うわけです。子育ての面倒と疲労、それと表裏一体になった幸福感、そして子育てから見えてくるさまざまな制度的な矛盾とそれへの現実的対策などに忙殺されるなかで、いま思想の最先端がどこにあるのかとか、いま流行のシーンがなんなのかとかいった話が、すべてどうでもよくなってしまった。
いくら変わったとはいえ、同じ人間、やはり本当に大事なものは戻ってくるものです。ぼくの場合であれば、さきほども記したとおり、2010年代も半ばになるといろいろな習慣が戻ってきました。本も読めるし、映画も見れるようになりました。とはいえ、それはけっして過去と同じではありません。かつては関心を惹いたジャンルの多くが、子育て期のフィルタリングに耐えられず、消えていきました。
https://twitter.com/nagumon/status/656859140862537728?s=21
食へのこだわりって色んなタイプありますね。
https://twitter.com/ashibenotomaya/status/716473110531153920?s=21
マジレスするのも馬鹿馬鹿しいけど、上念某氏はそんなに「牛丼を食べる自由」を人権として主張したいなら、一般的行為説に立って「牛丼を食べる自由」は憲法13条で保障される「幸福追求権」だ、とでも言えばいいと思うよ。
https://twitter.com/ashibenotomaya/status/716474160990425088?s=21
まあでも、「牛丼を食べる自由」という例えはたしかにちょっとセンスないと思う。例えとして挙げるんだったら「レバ刺しを食べる自由」だね。これなら憲法的な問題として論じる意義はある。
https://twitter.com/smith796000/status/716473121189048321?s=21
ご協力感謝!模範解答w RT @ndoro19542566: 憲法12条により牛丼を食べる自由が保障されており国定のハラルは許されない。但し食品を売る自由については公共の福祉の観点から毒物を禁じたり衛生を確保するなど一定の制限があり、下位法に明文規定されてる。牛丼は合憲w
https://togetter.com/li/1391510?page=2
https://togetter.com/li/1977218