2022/08/21-2022/08/31
場や空気ではなく、抽象的な生き方をすべきと思うのか?
それともニュースを見ずに生活に没頭すべきと思うのか?
目の前のこと、人、空気に、正しく反応的で参加的であること
文字になるような抽象的なことだけに価値があって、目の前のことは気にもならない
ハイブリッドではなくコンパチブル
作動音を漏らす感じ、脳内圧を下げる、ブレーキをかける
高い出生率を保持しても、人口の若返りを図っても、社会における「支える側」と「依存する側」のバランスを好ましい状態に維持できるわけではない。加齢によって国民の健康状態の悪化が始まるタイミングは国によって最大30年の開きがあるが、一般に高齢化が進んでいる国ほどその開始は遅くなる。
持続可能な社会保障制度と旺盛な経済活動を維持するためには、人口の構成を気にするより、国民の健康と教育の水準を維持するほうがはるかに重要だ。
⇒子育て世代より、老人にお金を使ったほうが安定するかもしれないということ?
すぐにできるレベルの宿題を与えてくれる「やってる感」は、心地いいのだ。
毎日記事を書くだけで「がんばってるね」と労ってもらえて、記事がちょっと拡散されたら「すごい!」と褒めてもらえるのは、たしかに心地がいい。
この法則に則った数多くの事例を眺めていくと、はたしてヒトが物語を所有しているのか、それとも物語がヒトを所有しているのか? 人間の主体性というものへの確信も揺らいでくる。
でもクラプトンは全て自らの意思と責任によって事を処理しています。接種証明はいらないけれども、ワクチンを打つなとまでは言わない。マスクをしろとも外せとも言わない。静かに聴いても歓声をあげてもどちらでもかまわない。 それに比べるとTakaの言動が他者を巻き込むことを前提にしていることがよくわかるはずです。
(中略)
全ては自分の意見をフォローしてくれる人たちの行動にかかっている。自分が社会に訴えかけるのではなく、言うことを聞く“信徒”の数によって目にもの見せてやろうという態度。
結局「国際秩序」とか言ったって「欧米人に都合の良い秩序」ってだけでしょう?
…こういう感情的反応が人類社会全体で渦巻いているからこそ、「どっちもどっち」論を止められなくなるわけです。
だからこそ今必要なのは、
「もっと本質的などっちもどっち論」
であり、
「国際秩序」に対して「これは皆のためのものだ」と立場を超えて思ってもらうためのメッセージの送り方を真剣に考えること
です。
私が提案したい「毎年夏に考えるべき課題」は、
「国際社会がどのタイミングでどういうメッセージを発してくれれば、戦争は起きずに済んだのか」
…という視点を取り入れることです。
これこそ「日本人にしかわからないこと」だし、現代社会においても今最も実用的に考えられるべき課題ではないでしょうか?
この課題に対するドイツのやり方が「お手本」として長年称賛されてきましたが、それは結局
「西欧文明の一員としての特権性に引きこもり、ナチスだけをトカゲの尻尾切り的に排除し、その課題を“欧米から見て辺境の社会”に押し付けた」
…だけに過ぎない。
「叩きやすいヤツをかっこよく叩いてるだけ」みたいなのではダメだということです。
これを「人類全体の罪」として、「こういう連鎖が起きないように」真剣に考えるべき時なのです。
それを「コモン」みたいな「なんかステキな用語」を発明するだけで「純粋に左派的言論の内側だけであらゆる課題を解決できるという幻想」を振りまくのは無意味なだけでなくてかなり「有害」なんですよ。
なぜならそれは「欧米風の知識人コミュニティの”その外側”に置かれた人たち」の参加可能性を排除し、彼らの効力感を奪い続けることで、回り回って「欧米的理想そのものに反旗を翻す」ムーブメントを不可避的に生み出してしまうからです。
欧米社会においては「左派的理想」が意味を持つことも結構あると思う(逆に欧米における右派思想というのは自分たちの特権性にただ乗りかかってるだけの普遍性がないものが多い)が、一方で「辺境」になればなるほど、「そこに生まれる右派思想が普遍性を目指す」時に何らかの意味のある思想が生まれやすいのではないかと私は考えています。
その悪名高いコンサルタントは「社員に素手でトイレを掃除させる」的な施策で有名らしいんですが、ただそれ単体で聞くとバカバカしすぎるように見えるんですが、ただし資本や関係者の知的能力に限界がある主体からすれば、ある程度「社員の献身」を引き出すような文化自体は生存に必須不可欠なものなんですよ。
いわゆる現代思想、つまり20世紀後半のフランス系の思想家たちは、文学の「限界」や主体の「限界」について論じるのが好きですね。彼らは近代的主体が「限界」にたどり着いたところで、そこに主体の外部が立ち現れるという議論を好みます。しかし、ぼくからすれば、というより一般的な認識からすれば、主体の外部こそがむしろ最初に存在しています。「自意識の球体」を問題にする以前に、そもそも自意識は球体などではないし、自意識の球体に閉じ込められていると感じている人の方が少ないということを考えるべきです。(中略)哲学は意識の外部という問題をことさら神秘化してきましたが、それはもっと即物的に捉え返す必要があります。
哲学の誤配(ゲンロン叢書)
こういう「言葉にして話す」力は胡蝶しのぶさんだけじゃなくて炭治郎くんにも凄くあって、あとタイプは違うけどユシロウくんとかにも凄くあって、さらにタイプは違うけどお館さまもそういう能力が凄い高い。
そうやって「言葉にする力があるキャラクター」がたくさんいるので、ツンデレがツンデレのまま放置されないで有機的な連携が取れるようになっている・・・
これが、「鬼滅の刃」にあまりにもベタななツンデレキャラクターがいないように見える原因ではないかと思うわけですね。
要するに、胡蝶しのぶさんがやっているのは、
「自分がコミュニケーション力があることを、自分のためだけでなくみんなのために使う」
柱だろうとなんだろうと不服があったら炭治郎くんみたいにバンバン言い返せるようにしてやる。一方で「柱側」の言い分にもちゃんと意味があるのなら、それを「炭治郎くんたち」にちゃんと理解できる言葉で伝える。
これは単純化していうと、「父親的なもの(社会)」との関係をただ拒否し続けていると「アクセサリーとしての女の子」に取り囲んでもらう必要があるが、
⇒逆に社会に抑圧されきって、言われるがままに生きていると、「大丈夫よ!」と言ってくれる1人がほしくなる。
ただ、たぶん僕は東京でないとはいえ関西で結構な都会育ちですけど、もっと地方だったりもっとハンデのある育ちの人で、頑張って「勉強して東京に出てきた人」を、ユシロウくんが炭治郎を導いたようにサポートしてやってほしいなと思うわけです。
韓国の人はあらゆる問題は「人災」だと思っていて、日本人はあらゆる問題を「天災」だと思っているんじゃないか
僕は高校生のときに阪神大震災で被災してるんですが、近所がワンブロックまるごと焼け野原になったりしたけど、「天災」だから誰のせいってわけでもないんですよね。まあ自宅の手抜き工事の結果として家族が圧死したとかあれば別ですけど、
「今際の国のアリス」の「本当の黒幕」は、実は「天災」みたいなものなんですよ(詳しく知りたければ漫画版を最後まで読むか、ウィキペディアでも読んでください)。
一方で、「イカゲーム」は明らかに「人災」というか、「理不尽なことをやってくる主体としての具体的人物」がいますよね。
イカゲームの海外での評判をネットで読んでいると、あの「黒幕としての白人VIPたちの狂瀾」が、「戯画化されすぎていてリアリティがない」みたいな批判をしているのを結構見るんですが(笑)
韓国における「主人公たちのヒロイックな行動」を「完全な善」にするために、「とにかく純粋に悪い奴ら」が必要になってくるんですけど、その本能を極限追求して戯画化するとああいう「白人VIPが下々の者を生死を笑って楽しむ図」みたいな構造になる。
だから、韓国コンテンツでよくある
「どう考えてもとにかく純粋に悪でしかないってやつがとにかくヒドイことをするシーン」
があって、
「普段はちゃらんぽらんで難しいことは言わないが、根っこには正義感が熱く燃えている主人公」
がここぞという感じで
「きさまああああ!それでも人間かあああ!!!」みたいなキレ方をする
みたいなシーンが、「天災メンタリティの倫理観」からすると、結構ビミョーな感じがするんですよね。
説明が難しいその「微妙な違い」を無理して言葉で説明すると、まず日本人はそれぞれなりの人生の事情が対等にあると思っている傾向があるので、「無惨、お前は存在してはいけない生き物だ」とか「クリリンのことかぁー!!!」って断罪していても「それぞれなりの生まれついた生命の本質を生きているのだ」という相対性が存在するという世界観は決して踏み越えないし、”それは踏み越えないけどその上で”「それでもあえて俺はお前を倒す!」を「倫理的上下」"ではない"ところで着地させようとするんですね。
「イカゲーム」と「今際の国のアリス」を比較すると、イカゲームの主人公たちは、個人レベルでは結構「倫理観ある行動」をしていると思うんですが、「ゲームの構造」自体には結構唯々諾々と従ってる感じなんですよね。
「個人レベルの行動」において、ズルをして他人を蹴落としたとか、そういう事一個一個について「倫理的にどうなのか」という問題意識は凄い鋭敏なんですが、「ゲーム」には唯々諾々と従うしかない構造になっている。
一方で、「今際の国のアリス」の主人公たちは、一貫して「ゲーム自体に抵抗している」というか、明らかに個人戦であるようなゲームを「みんなで協力するゲーム」に変えようと必死になっている。
うまく説明できないけど、ルフィ(ワンピースの主人公)は友達にいたら凄い苦手なタイプなんだけど、炭治郎は凄い良い友達になってくれそう
単純化された世界」だけでない世界を、自由自在に
・「ああ、これ系はこう描けばいいんだよな」
・「ああ、これ系のキャラクターはこういう声優のこういう演技にすればいいんだよな」
的な蓄積を、業界関係者と日本人消費者が一緒になって蓄積してきた結果が「鬼滅のアニメから爆発する」展開を生んだはず。
煉獄さんって凄い自分に厳しくて公正公平に理想を貫こうとするし、とにかく「味方として頼りになるぅぅぅ」という存在ではあるんですが、ただ存在が「自己完結」しすぎているところがあって、こういう存在って、現代社会では結構居場所がない感じになると思うんですよね。優しさがない、思いやりがない・・・みたいな感じで。
全方位的な「優しさのフリ」が求められる現代社会において居場所がなくなっていってしまったキャラクター
何らかの「らしさ規範」みたいなものがあることの意味は色々あるけど、「ほうっておいたら誰もカバーしない領域」に人を手当する・・・ってことが大きいと思うんですよね。
女性が「ケア役割」を押し付けられる問題がある・・・というのはまあ正しいとして、
軍人とか消防官とか、あとは重労働だけど誰かがやらなくちゃいけない類の色んな仕事とか、そういう「成り手を見つけるのが難しい仕事」ってのが結構あるわけですけど。
「男らしさ規範」は、そういう「損な役回り」を担う存在をちゃんと大事にする効果・・・を持っていたりしたはずですよね。
「らしさ規範」みたいなものは、そういう社会内部の人材マネジメント的な深い合理性が眠っているわけだから、「単なる誰かのエゴ」だと非難するだけでは解決できない。
煉獄さんよりは「実力」は弱いかもしれないが、誰かのために必死になって「鬼の弱点」を教えてくれた同僚の隊士を「立派な人だ」って思う・・・という話だったんですよね。
そういう「本質的な意味での平等性」にちゃんと目を向けることができれば、「立場とか形式上の平等性」に無理やりこだわり続ける必要が減って、「強い人がちゃんと弱い人を助けられる」構造に自然とみんなが乗っかれるようになるんじゃないか・・・とは思っています。
「実力や才能には当然のごとく差がある」わけで、「そんなのないよ!」という話を無理やりでっち上げていくのも結構たいへんじゃないですか。
でも「それぞれなりに生き方をちゃんと立派にしていくことはできる。その点では平等なのだ」みたいな理解の仕方・・・って、ちゃんと社会が「そういう美徳のあり方」にコミットしておかないとどんどん消えてしまって、果てしなく個人同士のエゴの争いだけが残ってしまう不幸にまっしぐらなわけですけど。
うちの父親って凄いコミュニケーション下手で、とにかく母親と会話が全然成り立ってない人だったって話を煉獄さんを見ていると思い出すという話をします(笑)
いきなりなんだ・・・って感じなんですが、そういう時に「子供」って結構「かすがい」役っていうか、お互いのコミュニケーションロスをなんとか補完したい・・・みたいに動いちゃうと思うんですけど、
「そういう事を子供にさせるべきでない」
っていうのが最近のトレンドになりつつありますよね。
まあ、潰されちゃうならそういうことしなくてもいいけど、でも自分は、「父親が担っていた役割」ってやっぱり大きくあるな・・・と思っていて、「そのことを母親にもわかってほしい」ってずっと思って生きてきたな・・・という話をします。
発達障害界隈を見ていると「集中困難や聴覚過敏があるせいで言葉がすべて聞き取れないから会話ができない」と誤解に陥ってる人が結構いるけど、会話というのは聞き取れなくても誤魔化して相槌打って分からない箇所を相方向的に尋ねるプロセスなので、英会話もイッパツで100%聞き取りは必須じゃないはず
女性用風俗を使ってる人がセラピストの男性に送ってるメッセージを見せてもらったら、おじさんが風俗嬢に送ってるLINEみたくなってたので「めっちゃおじさんじゃん」って言ったら「おじさんだからこうなるんじゃなくて、風俗を使うと女性でもこうなるんだよ」と言われて感動しました。
ただ単に相手の気を引きたい。且つ、金では無く気持ちの関係になりたい。から、情緒性を加味して金の付き合いをやめて一緒に~しよう。になるとそういう構文になるという話では?
男女関係なく、格下が格上に好意を持って接する時、気後れや気遣いを拗らせて文章をやたら捏ねくり回すとああなる。あれがおじさん特有じゃないことは界隈男子ならよく分かる。ただ、女性はメンヘラ化しがちでストーカー沙汰、男性は怨恨を抱きがちで暴力沙汰とか、この構文の後の行動に性差が現れる。
「あまりに一方的すぎる!」と言いたくなる気持ちというのは、相手からの「あなたはあまりに一方的だった!」という訴えなのです。
ただこれはカウンセリングの中での話です。そのため「あなたはあまりに一方的だった」の「あなた」が、必ずしもカウンセラーその人を指しているとは限りません。
というより、どんな場合でも、およそ誰かを激しく罵っているようなとき、罵られている相手こそ、罵られている内容の責任者であるとは限りません。
食べてみると、たしかにナポリタンな味はするのですが、非常にわびしい食事となりました。食べても食べても同じ味と同じ触感が続くのです。
逆に言えば、濃い味付けの料理に分類されるナポリタンですら、その食事は均質には進まないのです。味や食感の「アクセント」が効いています。
つまり、料理の味といった場合に、一口、口に入れたときの感覚だけが意識されがちですが、そうではなく時間的な経過を伴う感覚の総体が食事を構成しているのです。
⇒実話の寓話的。こういうのがなんのかんの好き。でも、ツイートでこれを読んだときにはそれほど引き込まれなかったということは、「いきなりノウハウ本の話に行く」と私には響きにくいのだろうな。一回、内省というか、抽象での描写を通らないと感じられない、という。 ⇒ところで、ではなんで、そうめんは大丈夫なんだろう。
基本的に「書けることがすべて」と考えているので、事前に立てたアウトラインよりも、実際に書いた原稿を主軸に置くのですが、そうはいっても外したくない話(でも書かなかった・書けなかった)もあるわけで、この両方を考慮して企画案を再構成していきたいところです。
抽象的な知識であるデザインパターンを解説した『Java言語で学ぶデザインパターン入門』も、Javaという具体的な言語でのサンプルを使っています(私はこの本をJavaがほとんど書けない状態で読みましたし、読めました)。
⇒このとき、「ついでにjavaも学ぼう」「同時にjavaも学べている、って、本にしよう」という邪念があると、(読み飛ばしが効かないので)読めなくなるかもしれない。
「発想法」とは違う役割を持つ、「考えを育てる」という営為。その意味づけと手法、そしてデジタル・カード・システムがどんな役割を発揮するのか。そういう話の解説書になればと思います。
その意味で、連載を始める前に考えていたコンセプト「知的生産におけるScrapboxの位置づけを確認する」とは、少しズレてくるかもしれません(これも平常運転です)。
「私とScrapboxとデジタルカードシステム」というようなエッセイ風文章がしっくりきそうです。
⇒なるほど。
「〜と〜と〜」
かつての私は、きっとこう考えていました。『Scrapbox知的生産術』というページを作り、このページを定期的に見返して、そこに新しい発見を付け加えていくことで、企画を育てていこう、と。
かつての私は、きっとこう考えていました。自分の知見をすべてScrapboxに集めていき、その中でScrapbox+知的生産にカテゴライズできるものには、#Scrapbox知的生産術 というタグを付け加えよう、と。
結局その目論見は破綻し、ぜんぜん別の形でメルマガで連載されました。
とは言え、SNSの利用はほとんど避けがたく広告情報との付き合いとなりますし、
自分の好みのコンテンツが集まり、コンテンツ以外は存在しない状況です。非常に心地よい状況と言えるでしょう。それらのコンテンツはいつ読んでも構いません。読まなくても構いません。
自分から情報を探しにいくといちいち手間になる。かといって、情報が一方的にプッシュされると制御不能になる。
この中間地点に、いい感じの「情報ビオトープ」があるのでしょう。そこでのポイントになるのは「フォロー」という概念です。この概念は、きっとまだぜんぜん探求されていません。フォローするとはどういうことか?
Emacsとポメラ。このふたつは、どちらもぼくの道具。
どちらも1年や2年ではない、長い時間をとおしてデザインされ〈カタチ〉にされた道具。そのそれぞれをつかう自由がぼくにはある。
みちこ @annabelle_coco
めっちゃわかる
「先生~!課題~!」と元気よく声をかけてくれるので
「課題をどうするんや、そしてどの課題のことや、そもそも君は誰や」
って毎回なる
「先生はエスパーじゃないので必要な情報は前もって全部出してよね」