2020/08/29-2020/08/31
手洗いは習慣にするしかないのだが
10倍の開き、新しい財布
職場あるいは社会の一員としては、そつがなくて器用。組織からすれば優秀な人材。高橋がドラマで演じる男は、わりとこの手の「できる男」が多い。ところが、人としてはやや難あり。言動や思想に問題があり、見ている側は思わず「クズ!」と叫ぶような役どころなのだ。それでも回を追ううちに、「実はこんな背景があったのか」「この人、悪い人ではないのかも」「逆にいい人じゃん」と評価が変わっていく。ひとつの作品の中で、その人物の評価がひっくりかえるような役を高橋は得意とする。
ところが、劇中で子どもを巡るあまたのトラブルがあり、高橋は変わっていく。モラハラの裏には幼少期の哀しい経験があったこともわかる。愛情表現が不器用だということもわかる。濡れ衣を着せられても逃げず、淡々と過ごす強さもある。「人はこうして変われるものか」と希望をくれたのだ。
たいがいのドラマは人間の成長を描く。その成長に必要な苦境や試練が小さかろうが大きかろうが、人は必ず成長を遂げるというのが定番であり、カタルシスや達成感もある。高橋が演じる役は、単純に「成長する人」というよりも「変わることができる人」が多い。人はそうそう変わらない、と諦めていた人に「人生、捨てたもんじゃないな」と思わせてくれるのだ。
昔のドラマでは、破天荒または傍若無人の強いおっさんや、アウトローなおっさんをどこかで求めていたような気もするし、実際そういうおっさんがウケてきた。現代社会の閉塞感を打破するヒーローみたいな感じかな。
ところが、今はそのニーズがない。破天荒は迷惑だし、金や腕力にも憧れない。スマホでそこそこ解決できるし、経験豊かでも威圧的なおっさんから学ぶことは何もない。誰もおっさんに期待しなくなったからだ。
男の沽券、父の威厳、先輩の教えを振りかざすよりも、つねにフラットなほうが慕われる。女性や子ども、若者を下に見ないおっさんも好ましい。愚痴や悪口は言う小心者だが、根に持たず。そんな、どこにでもいそうな肝のちっさいおっさんのほうがリアリティーも親近感もある。強いおっさんはもはや不要。おっさんのダウンサイジング。そういう時代になったのだ。
小学5年生のときに『アニー』に出たいって思ったのが、私の最後の将来の夢だったんです。そこから、もうないんです。こうしたいああしたい、が、仕事においては特にないっていう」
一方、ほとんどの役者はデビューしてからも夢を追い続けます。役を演じるときも「現実」を超えた理想を見せようとして、彼女とは対照的に“ドラマをよりドラマ的にする”ことを目指すのです。そこには自分をよく見せたいという心理も働きがちで、ともすれば、台本が描こうとする世界とズレが生じたりもします。
⇒こういう記事を読むのは結構好きだけど、その俳優の顔を知っているわけではない。文字の並びで名前を知っていて、そこにエピソードが追加されていくだけ。
見かけたときは読みたいと思った記事でも、読まずにURLを一日寝かせておくと急激に読みたいゲージが減少すること気がつく。瞬間的な反応で生きる、というのは、つまりその逆なわけだ。
問題は、そう言おうと思えば、どちらの自分だって「本当の自分」だということだ。前者が偽りで、後者が本当ということはない。一方で、前者に偏りすぎてしまう危うさはやっぱりある。真偽ではなくて、健全さが課題なのだろう。
⇒「勢い」がないとやれないこととかね
⇒読書なんかも、買ってきたすぐが一番速く読めたりする。
いまだに「知的生産の技術」をどう英語にするのが適切なのか判断できていない。
⇒"the art of processing your mind" 的なニュアンスに寄せてみたい気持ちがある。
⇒洋書のタイトルにするのなら、 "think more efficiently" くらいまで持っていきたい
「普通の人はアイデアなど求めていない」という言説について考える。一般的にアイデアは有用なものだと思うが、不満や文句だけを述べ、問題を解決するのはいつも自分以外の人間であると考えている(≒対象にコミットするつもりはない)人にはたしかにアイデアは求められていないのかもしれない。
⇒私がそれを発言しているとしたら、それは、「判断」とか「計画」とか、そんな“対応” に属することを求められていることかな?
目標(到達地点や締め切り)は上長によって決まり、使えるリソースは歴史によって決まり、手段は法制度や組織によって決まり、自分はその遂行にのみ責任を問われ、突発事項や言うことを聞いてくれない人などの問題点による遅れをいかに吸収するかという、マイナスをゼロにするために身を削ることにだけエネルギーを取られるという印象。
⇒「自分のやりたいこと」に対してあたまを使うことを、世間や社会から求められていない苦しさというか。
他者=異物は、素朴なオブジェクトではなくて、第一感でネガティブな感情を抱いてしまう対象なわけで、それとどう付き合えるかが鍵になる。
現代的な調和は、足並みを揃えることではなく、躍動する他者をどう受容するのか、ということなのだろう。足並みを揃えられない他者への疎外に目を向ければ、そういう結論になる。
いやいや、議員の方達とお話する機会があっても、患者会だから、会なら数になるからと対応してもらっても、実際は病気や制度についてなんの感心もなく、かえっていろいろ足蹴にされることもあることを経験すると、いろんな勉強会に足を運んだり、いろいろしておられる議員を応援したくなるよ。
そんなことも知らんのかって言わないっていうのほんと大事ですよねだからその人の話が聞けるなと思うくらいに。
日本は現場力が高いので、初動は比較的うまく凌げるのだけど、きちんとしたロジを整えて合理的な仕組みを新しく作る能力が著しく低いから、時間の経過とともに、他国から遅れていく事になる。多くの分野で共通する現象です。
過去に欧米人と仕事をして、羊飼いや軍隊の文化の人達がバックオフィスやロジスティクスに対して持っているマインドとノウハウは、日本人と違うなぁ。と驚いたものです
仕組み作りに短期間で一気にリソースをかける。リーダーに権限を与える。レベルが違いました。