20190617-20190618
話がおもしろくないってのは、実務者ってこと。
子供が、たとえば、ペットを飼いたいとか言いますね。
ここで、おばか君みたいな人がいればいいのにな、みたいなことを
もちろんこれらの不安は、まっとうな不安だと思っています。タスクをやり忘れたり、有益な情報を獲得し損ねたり、せっかくダウンロードしたアプリケーションを埋没させてしまうことは、誰だって避けたいものです。避けたいので、不安心理が働くのです。これはやむを得ないでしょう。 しかし、「不安心理」が唯一のモチベーションである場合、不安でさえなくなれば、その行動は実行されないことになりがちです。「不安だから」というだけでメモをとると、メモをとった時点でかなりの程度「忘れる不安」は解消されるため、そのメモはそのまま死蔵されるわけです。 シゴトハッカーズ:「不安だからとっておく」のはいけないのだ (2/2)
印象論に近い推測を持っている。だが、それ以上、この推測を進める気もなければ、ブログに書く気もない。
そもそもツリーとは何か?
(聞く側)「理由は3つあります」と先に言ってもらえることによる、認知容易性
(伝える時)上位《共通)概念のない、事象の
市民社会に求められるのは臆見を排することではなく複数の声があること
複数の声が挙げることがその実践にもなる。
私は、ブログとは、そういう複数の声の場であると思う。
市民がそれぞれはその生活感から得られた他者というものへの人格的な了解性を持つが、その了解とともに必然的に生まれてきた嫌悪感というものが、市民社会を支えている一つの無言の原理になっているのだろうと私は考えている。
踏み込んで言えば、複数の意見が聞こえるように、市民社会の市民が声を挙げることを励ますべきだと思う。多様な声の一つではあるとしても、罵倒コメントを書く代わりに。
一応世相の記録(ログ)というだけで書くので、だから、このエントリには大した内容はないです。
ブログをやっていて世間で話題になっていることは、時代のログ(記録)としてできるだけ触れておこうと思うけど、それでも世間の空気があまりにも自分の理解を絶していることもある。ので、そんなときはちょっと避けていようなかなと思うようになった。というわけで現下そんなときかもしれないので、暢気に外国のつまらない話題でも取り上げるのがいいだろう。
ただ、この話については、普通の国民の一人として雑感を書くくらいはしてほうがいいのではないなと思うので、ちょっと書こう。その程度なので、大した議論とかにとらないでほしい。
人によってブログを書く立脚点は違うものだ。社会のなかで置かれている場所も違うからだ。しかし、共通点もある。それは自分が何かを「正しい」と思う感覚だろう。
正義を語っていると、人はよいことをしている気分になる。しかし、「語られた正義」というものは、実は、他の人でも語れることだ。
正義を語ろうとすればするほど、他の人でも語れる話になる。
人によっては政治的な話はブログで表現するような話題ではないかもしれない。しかし、アイドルグループやアニメ映画について語っても、正義を語る罠は潜んでいる。
自分の私生活的な部分だけを書くことにもなりかねない。しかし、そんな自分のことなど普通は誰も関心を持たないし、読まれることすらない。
誰かに読まれる価値のあることとは、どういうことなのだろうか。そう考えるしかない。
僕は、まだブログを書き続けるようには思う。僕は自由でありたいと思うからだ。自由な市民でありたい。
僕のブログは、僕が自由な市民であることの、ひとつの表明である。それ自体――自由に市民が発言すること――が一つの戦いだとも思っている。
Liberté, Égalité, Fraternité !
私がブログを書いているのも、けして政府によって言わされているわけではない。市民はブログを通して、直接自由に声を挙げられることができる。それを実証するために、ブログを10年以上も続けてきた。
で、こうした正論がぶたれると、「ヤバイマンション買ったやつが悪い」論は黙るしかない。もうちょっと正直に言うと、この手の議論はパターンなのでそのあたりを避けるのがブログ炎上をしないコツであって某所や某所や某所で言われている炎上回避作はあまり機能しないというのは別のお話。
世間知というのは正論にはなれないし、公言しちゃだめなものだ。というか、およそ公言する資格が与えられていない。回転ドアを通るときは子供の手を離しちゃだめよ…なぜってXXX 、鬼も十八な娘さんがそんな胸を強調したかっこでクラブに行っちゃだめよ…なぜってXXX 、マンションを買うときは管理組合をよく考えなさい…なぜってXXX 以下略。
世間知が足りないと言いたいのではないということ。逆だ。世間知というのはそういうふうに他者を追いつめるように機能してはいけない。
ただ、世の中をフツーに暮らしていくにはこうした世間知が必要になる。Dirty dozensは罵倒だけのゲームでもない。
世間知というのは公言されないものだ。正論にはなれない。
それでも大人というのはときたま汚れてこそっと世間知を言わないといけないこともあるようにも思うが、そのあたりはよくわからない。よき本はさりげなく伝えることもある。親は子供にこっそり伝えないといけないようには思う。
地域には親分がいる。ま、社会学的な話はさておき(ほら、そこの社会学専門さん、ツッコメ)、こういうボスの安定機構が市町村レベルの議員の半数以上、およびその派生の権力構造で地域社会の実質的な治安的な権力が維持されているのだ。だから、これを潰せという単純な話では地域社会が壊れてしまう。ああ、もうちょっというと、この権力構造は地域に残留させられた弱者の保護装置でもあるのだ。
もっともだからといって、こんな阿呆な状況を温存させておくわけにもいかない。なんとか代替的なNPOでもぶったてて名誉職を組織化したほうがいい。そして、はっきりいうけど、金はある程度ばらまく必要がある。餅を買うのだ、餅を。
社会が脱知性化されているという特殊な社会だからもしれない。実際のところ、現状、これだけ大学制度が機能していないのに、社会に弊害はなく大半の市民も知性のありかたになんの関心をもっていない。
昔からいわゆる古文が嫌いではないが、最近は古文がなんの解釈なく読めて我ながら唖然とする。パソコンを見つめる時間が長いわりに、旧かな、旧字体の文章に親しみを覚える。なんなく読めてしまう。旧字体のほうが自分にしっくりしてしまう。なんてこったと思うが、日本語の1000年の呪いのようなものが自分のなかで成就しつつあるのだろう。