2019/08/09
僕らは危険は嫌なんだけど、退屈も嫌で、自らその安全な世界から飛び出してしまう。つまり、僕らは安心を求めてがん保険に入りながら、なんらかの危険の依存症みたいにもなっている。アドベンチャーを人生に求めてしまうのが、僕らの社会なのでしょう。
【東畑】大学でも自分で問題を発見して解決するというアドベンチャー型の人材を育成することが求められます。主体性というやつですね。「ただ、いる」のが得意という人は就職活動で弱いんですね。でも、絶対そういう人もいる方が、職場は安全な場所に感じられると思いますよ。
【東畑】じゃあ、この競争的な世界のどこで僕たちが「いる」を確保していけばいいのかというと、実は僕らはいろいろなところに隠れ家を作りだして、そこに逃げ込んでいるんです。
――本に登場する「アジール」のことですね。クラスに「いる」のがつらいときに避難できる、屋上に続く階段の踊り場や、職場でしんどくなった時に逃げ込む喫煙所のような、つらいときでも「いる」ことができる場所。 【東畑】そうです。この隠れ家というのは、根本的には空間ではなくて人間関係だと思うんですよね。だからSNSも隠れ家になるし、会社の愚痴を吐く飲み会もそうです。
このとき、家族とかパートナーシップは一つの隠れ家として大きな意味を持つ気がします。その関係ってあんまり目標がないじゃないですか、甲子園を目指すわけでもないし(笑)。ただ一緒にいるために一緒にいる。そういうものが僕らの生を守ってくれる。 ⇒架空的な目標のある世界があると、中間的な存在になれるかもしれない。 最近シロクマさんところの過去ログを漁るのにハマってしまっていて、こういうメモが増える。
もうあと4~8記事くらいで一度休憩にしたいな。↓
思春期にあった実存の問題とはまた違った、マラソンランナーのように生きていくなかで、ふとした瞬間に感じる無意味さ。仕事や家族や趣味によって生かしてもらっているという恩恵と、生きていかざるを得ない・生きなければならないという重荷は、本当は紙一重で、その紙一重が狂うと中年の人生は転覆してしまいそうだ。
こういったことを立ち止まって考えると、だいたい気が滅入る。中年の日常に実存を問い直す猶予は乏しいけれども、日常の隙間にふと考え直すと、真っ暗な一本道を習慣と惰性と立場をともしびに歩いているような、言い知れない不安に襲われることがある。 こういう後ろ向きな趣味生活に対して、若い人のなかには「こんなオタクおじさんにはなりたくない」と思う人もいるかもしれない。正直に言うと、私も若い頃は、年上の錆びた残骸を反面教師のように捉えていたふしがある。けれども今の私は「俺のようにはなるな」などと言うつもりはない。
思春期に思春期らしいオタクライフを過ごすのは、もちろん素晴らしいことだ。そういう時期に出会ったアニメやゲームは魂の一部になる。でも、そういう時期が終わった後も人生は続くし、魂の特等席をなにがしかの作品が占拠してしまった後も趣味生活は続く。私はそういうのを投げ捨ててしまうのでなく、ぎりぎりまで楽しんでいきたいと思う、たとえそれが、後退戦のような趣味生活になったとしても。 会議の席上などで、積極的に発言力(信頼)を投資し、発言力をますます獲得していくというモデルは、相当にデキる人が、実力本位な環境で活動するぶんには有効でしょう。しかし、そうでない場合、普段は発言力をケチっておいて、ここぞという時だけ行使するようなモデルのほうが危なくない気がするんですよ。私のような出しゃばりな人間の場合は、とりわけそうだと思います。 インターネットが公共空間寄りのメディアに変容し、21世紀の権力分配のシステムの一翼として機能しはじめている現状のなかで、その現状を追認する行為に終始して、それで私は満足なのか。 「現在の世の中がこうである」「現在のインターネットはこうである」という命題と、「世の中にはこうであって欲しい」「インターネットはこうであって欲しい」という命題には、何かしらのズレがある。そして現状のなかで最大のベネフィットを得たいなら、こうであるべきは引っ込めて、現状追認に徹するのが利口だろう。そして私自身も含めて、インターネットで長く暮らしている人は多かれ少なかれ現状追認になびいていて、それで適応している。 多かれ少なかれ現状追認になびくのは、適応していくための手段として仕方のないことだし、それを非難してもはじまらない。第一、私だってそうしている。
私は、この変化をゲームに喩えるなら、横スクロールのシューティングゲームをやっていて、途中で高速スクロールが始まるぐらいの変化じゃないかなぁ……と考えています。
そして子育ては、「自分が勇者ではなくなったドラクエ」でしょうか。若者時代は、まさに自分自身が人生の冒険の主役だったけれども、子育てという要素が入ると「勝手に冒険していく勇者をメタ視点から眺めてサポートする」シミュレーションゲームっぽい要素に傾いてきて、人生のゲーム観に新しい視点が加わりました。これは、嫌いな人は嫌いでしょうし、好きになる確率を高くするためにはフラグを幾つか立てる必要もありそうなので万人に勧められるものではないのですけれども。 効率性。
効率性は、射幸性とは対照的なソーシャルゲームの罠だ。終わりなきアカウント育成を突き詰めていくと、プレイヤーは必ず効率性に行きつく。かつてMMOで「時給」という言葉が用いられたのも、つまりそういうことだ。 だから毎日、効率的にアカウントを育ててきた人がソーシャルゲームをやめるためには、ゲーム内の効率性ではなく、もっと高次の効率/非効率について考えなければならなくなる;つまり、このソーシャルゲームを続けること自体が自分の人生にとって効率的か、他の活動と比べるに値するほどの値打ちがあるのか、という判断である。 その際に判断を曇らせるのは、いままでソーシャルゲームに突っ込んできた時間や情熱だ。確かに、やめてしまったほうが人生にとって望ましいかもしれない。しかし、今ここでやめてしまったら、ここまでアカウントにかけてきた時間はどうなるのか? もう少しマイナーな『ヨーロッパユニバーサリス』というゲームになると、勝利条件が無い。プレイヤーは、15世紀~19世紀の世界じゅうの国家のどれかを選んで、好きなように遊んで構わない。全盛期のスペインやフランスを選んで世界征服を目指しても構わないし、セイロンや琉球といった小国を選択して「いつ潰されるかわからない小国プレイ」を満喫したって構わない。プレイヤーに採れる選択肢はものすごく多く、初めてプレイする時は自由すぎて戸惑ってしまうかもしれない。
『シヴィライゼーション』や『ヨーロッパユニバーサリス』は自分でゴールを設定し、そのために必要なタスクを自分で探してこなければならないるゲームだと言える。
ただ私の場合、それら以前にも「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を鍛えさせられるゲーム体験があった。それはゲーセンでのハイスコア争いのことだ。
「ハイスコアを狙う」という課題はクッキリとしているようにみえて、かなりフワッとしている。敵をたくさん倒せば良い・ボーナスアイテムをたくさん取れば良い、と思ってかかると、別のところにその皺寄せが来る。たとえば後半で武器が足りなくなるとか、ボーナスアイテムがトリガーになって難易度が急上昇するとか、そういったたぐいの皺寄せだ。 私はゲームで身上をつぶしたくなかったので、「現在の自分の腕前で」「学生として留年しない範囲で」という制限のなかでハイスコアに挑んでいた。となると、全国級のプレイヤーの猿真似をするだめでは駄目で、彼らのやっていることを自分向けにデチューンしたり、自分独自のパターンを開発しなければならなかった。