2019/07/10-2019/07/11
今日も、世界を、昨日よりも、すこし賢く。
いらなくなるのは、それが何であるかすらわからなくなった頃にやっと。
何サークルに入っていれば満足できたか?
高校時代。
体育会系とオタク部があったとして。
あるいは、大学で
テニサーとオタク部があったとして。
「どっちもなぁ…」
という人はいる、というか多いのだろう、
なぜ、両極しかないのか、あるいは両極しか目立ってくれないのか? 現実の私達は、ドラマのような恋愛にはなかなか出会いません。 たいていは、だらだらと、ぬるぬると、ちょぼちょぼと、じつに中途半端な恋愛を経験する人の方が圧倒的多数だと思います。 でも、だからこそ、ドラマのような恋愛に憧れます。そして、恋愛の始まりは、どこかドラマチックなものであってほしいと、願うのです。 もし、よし子さんが、「交際の始まりは、恋愛感情がないまま、だらだらと始まる」という映画やテレビドラマをたくさん見ていたら、一回だけの食事でも「あ、これが交際の始まりか。そんなもんか」とつきあい始めたかもしれません。 ⇒とはいえ、人間関係がそれほど好きじゃないと、マンガくらいにドラマチックで、濃い味付け(甘み)があって、はじめて「やってみてもいいかな〜」というレベルの選択肢にしかならないのも事実なのだよな。
⇒単行本が出るらしいので、Kindle化したら買おう。(朝日から出るんだと、結構タイムラグはありそうだな)
メモが発展したものが、リストである。リストはそれ自身が見通しを与え、またリストの操作を通すことで状況へのコントロール感を与えてくれる。 そういう行動を取ること自体が、少しメタなコントロール感に寄与している。目の前の状況というよりも、少し高度のある状況に対処できている、という感覚が得られる。その点も、存外に大切だろう。 「差別を許さない社会」は、いかなる人に対しても偏見にもとづく判断を許さず、ある人を「ほかのだれでもないその人自身」として理解することを要求する。
まさしく理想的な社会のありかたであるようにも思えるが、しかしながら、実際には一人ひとりとじっくり向き合って理解を深めるのはけっして容易なことではない。対人関係における「理解」には、多大な時間的・精神的リソースの供出が不可欠となるからだ。
複雑な社会のなかで、私たちはなにも間違ったことはしていないが、しかし「ただしい」と褒められるようなこともほとんどなくなってしまった。それゆえに、私たちは「ただしい」と言われたいし、「ただしさ」を実感したくて仕方ない。
不満はあるのに、解決策はない。
例えば、「女らしい」服装をしている女性にはセクハラに相当するような行動をしてもよいと思ってしまう「常識」や、女性的魅力を含む能力を用いて仕事をしている労働者(たとえば、性風俗産業従事者やアイドルなど)の権利保障が不十分であることを「仕方のないもの」「当然のもの」と思ってしまう「常識」。それらこそが、批判され変えられていくべきものであるように思われる。