理系知が判断の根幹になる時代
理系知が判断の根幹になる時代
今ちょっと『何のための「教養」か』という本を読んでいて、前半だけなのかもしれないけど、全体的に「役に立つ専門知(理系知識)、世界の中で生き、自分の人生を判断する力を養う教養(哲学などの人文知)」という無意識の前提があるように感じた。
それはある意味で正しかったのだけど、今回のコロナ騒ぎで思ったのは、「目に見えないものに対して正しい判断をするためには、人間修養的なものの優位性がそれほど目立たない」ということを思った。
もっとも、「生まれながらの感情」と「人文知の果てに磨かれた判断力」を一緒に扱ってはいけないけど、専門知を拒否するとき、私達はつい人文知を(都合よく)旗印に使いがちなので、ここでは両方をまとめて「地」の扱いとして、「図」として専門知について話を進める。
マスクに予防効果はない
接触感染を防ぐために手洗い
脂質のエンベロープを破壊する効果は、石鹸による手洗いとアルコールによる消毒で大差ない
発声がなければ満員電車のリスクは高くないと考えられる
PCR検査の偽陰性と(コンタミなどによる)偽陽性と、有病率の低い状態での一斉検査
みたいなことを、思考の深度に耐える力と健全な懐疑と精神修養だけで正しく判断はできない。いや、それらによって短慮をまずは抑えることは重要だろうけど、それらが「正しい判断をするための力」として専門知と対置されるのはおかしい状況ができている。
(もちろん「感染症法と保健所の歴史」とか、「治験を行ってからでなければ薬は使用できないという法律の知識」とか、「行動の自由を権力が妨げるべきではない」とか、「全国の重症病床の数」とか、理解に必要な知識は多岐だったが)
『自分の生活の糧を得るための知識』『生活を便利にするための知識』以外に、人が持っておくべき知識や文化があるとして、哲学はたしかに含まれるだろうとしても、そういう「教養」だけではなくなっているのだと思う。
そして、人生の時間は限られている。すべてを学ぶことはできずに、仕方なくこぼれ落ちる分が出てくることはありえる。そういう旧・教養の中から、こぼれ落ちる一部分、というのは出てきそうだ。
⇒地と図
タグ 人間修養が好きだった
from 2020/06/27-2020/06/30