最頻値という弁証法
弁証法という考え方があります。常識として流通している、「A」という考え方でもなく、それにアンチテーゼとしてぶつけられる「B」でもなく、その間で悩み考えた上で、より両者のメリットを深く取り入れた、第3の解決策である「C」を目指そう、みたいな。
そういう考え方を一人で問答するときに、私の頭の中で「B」の位置によくくるのが、
結局大多数はどうするだろうか?
人間が無理なく実行できて、採用し続けていける、“ほどほど”のラインってどのへんだろうか?
みたいな考え方。
ある種、「極論を考えてみる」という思考のストレッチ がありますよね。 「市場原理が公平だ、って褒められているけど、それを限界まで押し進めた世界を想像するとしたらどうなるか?」
みたいな。
で、さらにそれの逆を考えて、
「管理経済の限界はどこだろうか?」
みたいな思考をする。
さらに、それぞれの理想を支持する人たちが論拠として使いそうな論理展開は何だろうか? みたいなことを考える。
で、まあ、どっちも極端はアホだよね、というか地獄だよね、という結論になるわけじゃないですか。
ここでやめても、他人に説明する場合や、テーゼ「A」の洗脳力が極端に強すぎて、その解除自体に意義があるような場合はいいと思うんですけど。
自分が人生で選択する場合、そういう+100や-100の選択肢は見せ札でしかないし、+50や-50も一部の天才のためのものでしかない。
「これからの時代の(自分の)お金の稼ぎ方をどうするか?」
ってときに、『パワフル強運社長』や『大人気クリエーター』や『変人天才研究家』や『出世レース勝ち残りエリート』からだけ話を聞いてそれを載せてる雑種を見ても、あんまり意味がないなあって。
もっと「真ん中」らへんの微差の工夫とその組み合わせを考えていかないといけない。 だから、右の極論と左の極論を見た後は、それら両方を「A」の中に押し込んで、「現実的にその間の、しかもどの辺に落ち着かせるのか?」を考えたい。
そんなことを、思春期の、いつも机の前にいたようないっき少年は考えていた。
事前にたくさん想像するのは得意だったけど、とりあえずやってみてそこから修正しながら実感をつかんでいくのは苦手だった、という話。