ぼさろ6巻の3レイヤー構造
『ぼっち・ざ・ろっく』の6巻を読んでいて、あらためてこのマンガおもしれー、すげー! と感じていた。その凄さがなんなのか、を言語化しようとして頭の中であれこれ考えていたんだけど、その中で思いついた概念があるのでここに書いてみる。
ただ、書こうとしてあらためて読み返してみると、「具体的にはこのページのこのコマ」というのが意外と見つけにくく、自分の身体感覚による受け取りかたの部分が大きかったのかもしれない。なので、ここからの “他人にも分かるように説明する” のは、結構うまくいかないかもしれない。
ぼざろのコミックは、アニメが “上品でありながら高速テンポ” という上手いアレンジをしたことで、割と「“エグいギャグ” が持ち味」みたいに見えていたけど、読後感としては、むしろ「キャラの“生きてる”感」がじんわり立ち上がってくる、人物構築のうまさのほうが印象的に感じた。“生活感” という言葉を使ってもいいかもしれないけど、別に貧乏な自炊をしているとか、畳や襖を丁寧に描く画力への執念がすごいとか、そういうことではないので、ちょっとそのクリシェからは今回離れておく。
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今回読んでいて感じた手触りは、「この漫画には、描写に3つのレイヤー(階層)がある」んじゃないか、ということだった。
一つが、人物や生活・人生の層。
2つめが、“キャラ”としての層
3つめが、表現・表象としての層。
バカ騒ぎが終わったあとに、第一の層が顔を出して、不安になったりしんみりしたりしつつ、みんな考えながら、進んでいく人生の時間を生きている感じが、ふっと立ち上がる。
2の「キャラとしての表現」というのは、たとえば「廣井さんはとりあえず酔っ払っていれば笑いがとれる、オチに使える」みたいな、人物を誇張した、定番のやりとり。
“表象”と言っているのは、胞子になったりミイラになったり、ムンクになったり、裁判官が出てきたり、そういった“感情表現の心象イメージ” であるかのように描かれる映像で、「これは単に心象表現であって、実際には人間は爆発などしていない」と解釈できてしまう部分。(まあ、この漫画については、それらが全部本当で、「主人公は人外である」、という作者の “悪ノリ設定” があるのだが……)
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この漫画は、ギャグ漫画・4コマ漫画として、2や3の表現が多用されるわけなんだけど、上質な「1」がいいバランスで混ざっていて、それが味わいにつながっているんじゃないかと思った。
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この3レイヤー構造については、歴史を物語にするときには分かりやすく存在してしまっている。
・沖田総司や源義経が美形、というのは第2レイヤー
・八艘飛びなんてできるのか? そもそも鎧を着た人間が、助走もできない船の上で「二丈跳び」することすら、後世のフィクションなんじゃない? →でもいいじゃん、格好いいし! みたいなことは、第3レイヤー。
・2や3のにぎにぎしさなんてなくても、時間は進み、平家の政権は終わるし、鎌倉幕府は開かれる。そこの時間の感覚が、1のレイヤー。
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モーゼが海を割っても割らなくても、イエスの分けたパンが無限に分けられたのが、理由なりトリックなりがあってもなくても、変わらず進んでいく時間の一部がある。そんな議論は脇に置いていたとしても。
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そして、そういう味わいは、「喜多ちゃんの家庭ってどんな感じなのかな?」「シラフに戻ったときの廣井って、どんな挙動なのかな?」「結局、この4人って、卒業した後どうするのかな?」といった想像に、納得感のある類推を加えていける、作者による“人物”の観察眼に支えられているのかなぁ?なんてことを考えてみる。
タグ 物語er、リアリティ
from 2023/09/16-2023/09/20