どうすれば褒めてもらえるのか。神様から。
どうすれば褒めてもらえるのか。神様から。
私は、一つのことだけを考えて生きていたい。仕事を一所懸命やっている瞬間は、家族に迷惑をかけていたり配慮が足りなくても、家族からも褒められていたいのだ。
何かに忠誠を誓っていたいというか、忠義を尽くしていたい。 とうすれば、神様は褒めてくれるのか、という神学的な問いを発したくなってしまうけど、そんな偉大なもののことを考えてしまったら、良くても「もちろん、すべてに愛を持った対応をするのです。どれからも逃げてはいけませんし、手を抜いてはいけません」とかと言われてしまいそうだ。 で、こういうときに、社会に出ると、答えのない問題に向き合わなければならない、とか正解のない問題、とかいう言われかたをして、そこでは暗に、「学校教育のせいで正解信仰の信者になってしまった」かのような前提が仄めかされていたりする。あるいは、「ゲームのせいで」。
しかしこれって、本当にそうだろうか?
人間に普遍のヒューリスティックの一つで、かつ、ある種の道徳心の裏返しなんではないか。 群れの個々が、我が身一つを考えるのではなく、ある種の熱狂を持って、自分以上の集団や概念のために団結する(したくなる)ための原初的な力。
もちろん、そこに副作用があり、不完全である以上は、なんらかの対策が立てられて超克されていくべきであるのは変わらない。
ただ、そういう原始的な本能にも似た、強い情動が自分にあることと、社会が複雑化して、一つの個体が生きるだけででも、自分の役割イメージを、“単純なひとつ” として規定するのは難しくなっている、ということは併せて言い得るかもしれない。
本能に逆らって、バランスをとる、あるいは引き裂かれ感に耐えて人生を歩き切る。
“統合されていたい!” という欲望に耐える、あるいはそれを彼岸のものとして諦める。
そういう努力というか苦悩が、万人に求められているってことなのだろう。
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その意味で、ポイントポイントでいいから、「統計的な最適値」みたいなものが見つかっていると、ほんの少し一息つける。
そんな部分は少ないし、頼ってゴリ押ししていると別の問題が起きる気はするけど。
まあ、仕方ない。私の内面に語りかけてくる神は、他力、とか幸いなり、とかそういうことは言ってくれないので。ヨブ記よりはましなのかもしれないけど。