「できないこと」というのは、あるわけだから。
東日本大震災、3.11の数日後。原発事故が起きて、誰の手も出せず、正確な状況が誰にも分からず、政府の公式情報は信じられなかったり信じたくなかったりする中で、ジリジリと状況が悪くなるのを、ただテレビで見ているしかない時期があった。
いつか、壊滅的なことになって、その被害が自分にも降りかかってくるのではないか。いや、とっくにそれは本当は起きていて、政府はそれを隠しているのではないか(「国民がパニックを起こさないように」とかいういつもの“勝手な”決めつけで)。
自分の身を守らなければ!
国は、政府は、何をやっているんだ!
見えていて、分かっていて、人の作ったものなのに、なんで手が出せないんだろう?
誰のせいだ? なんでこんなことになっている?
何かあるでしょう、解決策が!
なんとかしなくちゃ、なんとかしなくちゃ。
なんともできないわけないでしょう、あっていいわけない。
誰か、なんとかしてくれよ!
そんな感情が意識の水面下にひたひたと溜まってきていた。まったく理不尽で、非理論的で、根拠のない思念だということは、頭のテッペンでは分かっていつつも、でも感情の総量は増していく。
これ、いつ押し流される人が出てもおかしくないぞ。
なんでこんなことになるんだ。
天罰みたいだ。
なんにも悪いことしていないのに、って。
そんなことを、書いているこの今思い出しているのは
そんなことを、いま(2020/03/13)思い出しているのは、あれからたくさんの災害が起きて、それをまたテレビで見てきて、そして今、新型コロナ(COVID-19)の禍が渦巻いているときだからかもしれない。
でも、それは間違いだ。できないことというのはある。我々は神ではない。
限界はある。
確かこれ、当時たまたまつけたテレビで、ミッツ・マングローブがそんなことを言っていた。「自分を責めてしまったり」。
録画もしてなかったから、正確な文として引用はできていないかもしれないけど。
人類にも、政府にも、自分にも「できないこと」というのはある。
だから、他人や自分が不幸になっていくのを、ただ見ていることしかできない場面もある。それは認めたくないから、自分を責めたり、人に八つ当たりしたり、スーパーマンがどこからか現れてくれるのを期待したりしたくなってしまう。
過剰に自分や、文明を批判してしまったりね。
もちろん、「できることはない」と認めるのは苦しい。
ある意味で、極言するのなら、
という方向性のことを、言い放つようなものだから。
社会への視線、弱者への視線も生まれるかもしれない。 もっとも、じゃあ私が、そこをそんなふうにはっきりと割り切れているのかと言ったら、そんなわけはない。
本当にさばけているのなら、文にしたらこれだけシンプルな内容を、これだけの文字数でメッセージにしたりしない。
私の中にも沸き立っているものはある。
それは同じなんだよ。