「データ」についての Alan Kay とRich Hickey のやりとり
ヒッキーの立場:
データは人類の知識の基盤として「良いアイデア」
解釈から独立した「記録」として存在することに価値がある
データと解釈を分離することで、同じデータに対して異なる解釈が可能になる
これは科学や知識の蓄積に不可欠
ケイの立場:
データを解釈から独立したものとして扱うのは「悪いアイデア」(つまり、データそのものが悪いアイデアだとは言っていない^^;)
それは意味の伝達における本質的な問題を隠蔽してしまう
特にネットワーク化された環境では、解釈のプロセスを含めた設計が必要
B5000(バローズ社の“almost uncrashable”なメインフレーム)のような「解釈を組み込んだ」アーキテクチャの方が望ましい
ケイの "What if 'data' is a really bad idea?" という問いかけは、実際の発言を追っていくと:
データそのものを否定しているのではなく
データを解釈から切り離して考える従来の考え方への問題提起
特に「データを送る」という文脈での解釈の切り離しを問題視
一方、ヒッキーは:
ケイの問いかけを文字通り「データという概念自体が悪いのでは?」と解釈
そのため、データという概念の歴史的重要性や基本的な有用性を強調して反論
データと解釈は分離可能であり、それがむしろ有用だと主張
つまり、このやり取りの中で両者は:
ケイ:データと解釈の関係性について問題提起をしようとした
ヒッキー:データという概念自体への批判として受け取って反論した
という、ある種の議論のすれ違いが起きていたと解釈でき、これは「data」という言葉の多義性と、ケイの問いかけの曖昧さにも起因している。