石田光規『自己決定の落とし穴』
歴史の大半において集団で協力し、集団のルールに従ってきた
かつてテレビは一家に一台だったが一室一台になった
サブスクでさらに自由に
個人化した社会では「選択をしない」「決定をしない」という「決定」はできない
「しない決定」をした結果とみなされる
「自分のことを自分で決める」社会の息苦しさ
自分で決めろという割に結果にケチをつけられる
自己決定する理想の主体として高度な人物像を設定しがち
当事者の意志や決定、実際にとった行為は同じであるにもかかわらず、偶然に起きた事象によって私たちの責任の大きさがまったく異なってしまう 殺人と殺人未遂で犯人の動機や行為は変わらない
自由に選び決定してもよいけれど、そこに課せられる責任の体系は力のある人がつくりがち
これが自己決定の思想が強者の論理と言われるひとつの理由
記号化された生活
消費社会の到来で選択の幅が広がった結果、周りの人から見定められるようになった
誰もがつき合う相手を合理的に決めるようになれば、選ばれない人は必然的に出てくる
「決められない」「誤った決定をする」「決めたことを成し遂げられない」といった「弱い個人」の「決定(決められないことも含む)」を受け入れるためには、そうした状況にいたった個々人の背景を知る必要がある
まずは、時に顔を合わせ、おたがい同士を認識し、挨拶できるような関係を築くことが肝要
つながるための筋力を維持する
「場」の力を見直す