アテンションの矢印
サッカーの解説でよく「矢印」の話が出てくる。チームとしてピッチにどういう「矢印」を書くのか、という文脈で使う。サッカーは不確定要素の大きなスポーツで対戦相手が描く「矢印」をどう撹乱させるのか、どう分断させるのか、とか、その中で自分たちがどうやって「矢印」をゴールへつなげるのか、というパワーバランスの上で成り立っている。思った通りにならないことの方が多い。
イタロ・カルヴィーノが 窓の外のノイズ で示したのは、インターネットのテクノロジーのレイヤーではなくて、人間の認知のレイヤーで、どうやってアテンションを守るのか、という話で、その領域については何世紀も前から人間はこの課題に立ち向かっている。ここで述べられている 古典 というのは文字通りの蜘蛛の巣がかかったような、カビ臭いあの古典を指しているんではなくて、自分のアテンションを守るための方法を示している。 時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。 もっとも相容れない種類の時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが、古典だ。 それぞれの人が、それぞれの 古典 を持つこと。そこにインターネットユーザーとして強くなることのヒントがある気がする。矢印を向ける方向の目印、地図になるもの、としての 古典 。古典そのものに矢印を向けていたのがボルヘスにとってのダンテで、カルヴィーノは古典で自分のための地図を書いた。そしてオレはインターネットの断片、リンク、そして Wayback Machine から古典を編む(適当ーーー)