「場」や「流れ」はいったい誰が作っているのか?
「場」や「流れ」はいったい誰が作っているのか?
提起された事柄について、ちょっとはぐらかして答えたところがあるのでちゃんと考えてみる
まず「場」にはその「場」固有の「流れ」がある、というのを認めるところから始める
どういう「場」なのか定義されてる?
「その年」というゆるい縛り 一般的な話、個人の話、扱われている内容も、その粒度も質も全然異なる 総体として「その年」が描かれる みんなで書く 主催者とか参加者とか関係なく「場」が構成されるような定義がなされている?
全然、なされていない
なされていないように、なされている
?
定義? 規定? ルール? 仕組み? システム?
主催者サイドからの視点
2020AC2020 は6年?くらい続いていて、その参加者は入れ替わり立ち替わりしてて、今年も7名が NEW! だったりする(25名中の7名、28%)
それでも、なんとなく「ベスト・オブ・ザ・イヤーなアレ」という体裁、雰囲気を維持し続けているとは思う
主催者の責務として第1日目に post を投げるというのを課しているけど、こういう「場」である。とか、こういう「流れ」である。とか、そういうことを考えてなにかを書く余裕はハッキリいってない。いつでもいっぱいいっぱい
1. とにかく25枠を埋めること
2. 1日目は自分が join すること
3. そして25日間、完走させること
下のリンクにある自分自身が post した「ベスト・オブ・ザ・イヤーなアレ」の記事をざーっと見ても、あの人やこの人のような統一感がまったくない。毎回バラバラ! 自分でも呆れた!
2015年なんて、記事ですらない。ただの引用集というかリンク集
あー、2020年もただの引用集だった…
少なくともオレの記事じゃなさそう。じゃあ何が? 誰が?「場」や「流れ」を作っているのか?
皆勤賞なので「場」に対して少なからず影響を与えているかもしれないけど、その大きさは果たしてどうだろう? 大したことないのではないか?
そもそもみんな他の人の post をそんなに一生懸命読んでる?
オレは、主催者なのですごく読んでいるけど
そういう意味では、オレ自身が一番「場」「流れ」の影響を受けているのでは?
参加者サイドからの視点
mactkgサンの場合(再掲)
yomoyomoサンの場合
oshowtheripperサンの場合
が、毎日アップされていく他の参加者の記事を読んでいるうちに、何故か自分の記事の下書きが日々修正されていくのである(何が「前後も特に気にせず」だw)。 各々の記事は日常での自分の興味とオーバーラップしない話題を扱っているのに不思議なもんだ。いや、実はそんなに不思議ではない。思考の主体たる個々の人間は外界からの刺激に適応することしかできない些末な存在なのだ。いや、語弊があるな。我々は思考の主体ですらないのだ(我々は腸内細菌というエイリアンの乗り物であって…という話はまたどこかで)。 結果的に先週Tweetした時点とは全く異なる形になった私的ベストオブを以下に記します。 https://note.com/oshowtheripper/n/n4d578d15d171 shokaiサンの場合
12月でなくても、いつでも書けば良いと思う 事前に予約した日まで公開できないのが嫌 書いた瞬間に粗が見つかって、次の作業に取り掛かりたい その時、自分の書いたテキストが参照しやすい位置に無いと困る /shokai/アドベントカレンダー yuta25サンの場合
jigsawサンの場合
taizoooサンの場合