object の訳語から写真論・哲学へ
1. objectの訳に「実体」は使えるか
実体は標準的なobject訳ではない。誤解を招きやすい。 一般的なobject訳:対象/物体/客体/オブジェクト
2. 哲学での実体 = substance
アリストテレス・デカルト・スピノザ・ライプニッツの「実体」はすべて substance(希: ousía)。 ライプニッツの「個体的実体」= individual substance(仏: substance individuelle)。後のモナドにつながる。 3. 「認識の対象(object)は実体(substance)か」
objectとsubstanceは別の軸の概念。
軸が違うので同じものが両方を満たせる →「認識の対象が実体である」は成立しうる。
ただし枠組み次第:
アリストテレス:第一実体が認識の対象になるのは標準的
カント:認識できるのは現象。物自体としての実体は認識の対象になりえない ライプニッツ:モナドは直接与えられる「対象」ではない
4. 写真論:サブジェクトではなくオブジェクトを撮る
サブジェクト=主体的にそのものをどう見るか(撮り手の認識・解釈が乗った見方)
オブジェクト=その物質のみ、そのものの存在そのもの
関連する実践・言葉:
「写真を奴隷にしない」(浜田大輔)/「二日酔いで撮ると上手くいく」
零度(ロラン・バルト le degré zéro)=意味づけが貼り付く前の状態 結論:ここでの「オブジェクト」は実体(substance)ではない
むしろ「実体」は〈サブジェクトの側〉に来る。「持続する基体」と捉えるのは知性が後から貼り付けるカテゴリーだから。
→「object=実体」と訳すと、剥ぎ取りたかったものを貼り付けることになり意味が反転する。
substanceより確実に近い。理由:スピノザでは実体は神=自然ただ一つ、個物は様態にすぎない。 だが形相的本質(essentia formalis)は個物について語れる(『エチカ』第二部定理八)。 スピノザ/デカルトでは formal=実在の側、objective=観念に表象された側
渡部の「サブジェクト」=スピノザの表現的(objective)本質=観念の側
美しい符合:剥がしたい「ベタベタ貼り付いたもの」=imaginatioそのもの。写真家とスピノザは同じ敵と戦うが出口が逆(スピノザは知性へ上昇、写真家は感覚を鈍らせて下から抜ける)。 出会い(rencontre):思考は出会いに強いられて始まる(『差異と反復』)。「向こうから飛び込んでくる」=この構造。 affect(情動・触発):主体が立ち上がる前の、力と力の出会い。imaginatioを抜ける第三の道=到来する力に身をさらす。 シネマ:主観に映る前にイメージ=物質が在る。「人間以前の眼」=ピンホールや暗いファインダーが近づこうとする状態。 ドゥルーズ:内在平面差異=統一に回収されず発散へ(遠心・〈多〉) ただし写真への指示は一致:「主体を消せ、到来に開け」。
7. 実践:狙わずに「飛び込んでくるもの」を撮る
逆説:「飛び込んでくるものを撮ろう」と狙った瞬間、主客が分かれる。だから条件の側を変える。
技法(見えすぎを断つ):
暗いファインダー/ノーファインダー/目測ピント/深い被写界深度で「だいたい」
ミラーレスの「上手く撮れちゃう」プレビューを断つ
歩きながら・リズムで撮る/撮影直後に確認しない(chimpingしない)
目的は主観を消すことではなく、主観が黙る瞬間を増やし、世界が滑り込む隙間を作ること。
二眼レフ=ウエストレベルで「狙い撃つ」構えにならない。スクリーン像が左右反転し構図感覚を裏切る(渡部のローライフレックスと同型)。 白飛びしやすい=ラチチュードが狭い → 渡部のサングラスの比喩(明暗の割合がちょうどいいところを探す)を毎回要求してくる教師。 「言うことを聞かない」機械と「受け取れる光だけ通す」フィルムに挟まれ、「こう撮りたい」が薄まる。
着地:主観をゼロにはできないが、カメラと分け合うことはできる。飛び込んでくるものを撮る、の現実的な姿=撮り手とカメラと光の共作。