解明された世界問題
世界には謎はほとんど残っておらず、あったとしてもエリートや科学者達が独占している。無鉄砲な勇気があるだけの野蛮な人でも500年前なら未知の世界に冒険ができた。今では手に届く未知なんてどこにも見当たらない。既に知られているものばかりの世界で、予測可能な毎日をこじんまりと生活する…そういう考え。
代わりに達成してもらうニーズが起きている
「自分が応援したから舞台に立てた」というストーリー
『劇場版 推しが武道館いってくれたら死ぬ』
※カジンスキーは反技術思考のテロリスト
カジンスキーは人間の目標を次の三つに分類した。
1 最低限の努力で遂げられる目標
2 真剣に努力しないと遂げられない目標
3 どれほど努力しても遂げられない目標
簡単、難しい、不可能の典型的な三分法だ。現代人が鬱々としているのは、世界のすべての難しい問題がすでに解決されてしまったからだとカジンスキーは言っていた。あとに残ったのは簡単な目標か不可能な目標しかなく、それらを追いかけても満足感はまったく得られない。自分にできることは子どもにもできる。自分にできないことはアインシュタインにもできない。そこで、既存の制度を破壊し、すべてのテクノロジーを取り除けば、またゼロから難しい問題に取り組めると考えた。
カジンスキーのやり方は狂っているけれど、彼が感じたテクノロジーの進歩に対する幻滅は今の社会のいたるところに見え隠れしている。たとえばちょっとしたことだけれど、都会のトレンドセッターの間で流行しているものにも、この傾向は現れている。フェイクのビンテージ写真、カイゼル髭、ナイロンレコードのプレーヤーなど、どれもが人々がまだ明るい未来を描いていた時代を彷彿とさせる。やる価値のあることがもうやり尽くされたのだとしたら、成功になどまったく興味のないふりをして、バリスタにでもなった方がいい。
なぜ僕たちの社会は、知られざる真実なんて残っていないと思い込むようになったのだろう? 確かに、世界地図に空白はない。君が一八世紀に生きていれば、まだ発見されてない場所があった。未開の地の冒険談を聞き、自分でも探検家になれた。一九世紀から二〇世紀のはじめまでは、おそらくそうだったのだろう。ナショナルジオグラフィックには、人跡未踏の最果ての辺境地を探検する白人の姿が多く残されている。今では探検家は歴史の本かおとぎ話の中にしか存在しない。
物理的なフロンティアがほぼなくなったという自然の制約に加えて、四つの社会トレンドが隠れた真実への探求心を根っこから摘み取ろうとしている。
ひとつ目は漸進主義だ。僕たちは幼い頃から、一度に一歩ずつ、毎日少しずつ、学年を追ってものごとを進めるのが正しいやり方だと教えられる。人より進みすぎたり、テストに出ないことを勉強しても、誰にも褒めてもらえない。期待されていることだけをきちんと行なえば(それを同級生よりも少しだけうまくやれば)、Aをもらえる。
二つ目はリスク回避だ。隠れた真実を恐れるのは、間違いたくないからだ。隠れた真実とは、言うなれば「主流が認めていないこと」だ。だから間違わないことが君の人生の目標なら、隠れた真実を探すべきじゃない。自分ひとりだけが正しいと思える状況、つまりほかの誰もが信じていないことに人生を捧げるのは、それだけでもつらい。自分が孤立していて、しかも間違っているかもしれないとなったら、耐えられないだろう?
三つ目は現状への満足だ。いわゆる社会のエリートたちは、新しい考え方を模索する自由と能力を誰より持ちあわせているのに、隠れた真実の存在を誰よりも信じていないようだ。過去の遺産でのうのうと暮らしていけるなら、隠れた真実を探す理由がどこにあるだろ う?
四つ目は「フラット化」だ。グローバリゼーションが進むにつれ、人々は世界を同質的で極めて競争の激しい市場と見なすようになっている。世界は「フラット化」していると言うのだ。そうなると、隠れた真実を探そうという志を持つ人はまず、こう自問する。新しい何かが発見できるなら、世界のどこかで自分より賢くクリエイティブな人たちがそれをすでに見つけているのでは? そういった疑念の声によって、隠れた真実を探し始める前に諦めてしまう。世界は大きすぎて、ひとりの力では何もできないと感じてしまうのだ。
隠れた真実の存在を信じない人たちは、世界をどんなふうに見ているのだろう? 人間がこの世の謎をすべて解明したと思っているはずだ。
隠れた真実が存在しない世界では、完全な正義が実現していることになる。一方で、どんな不正義も、はじめからそこに道徳的な問題を見出すのはごく少数の人々だ。そして、民主的な社会では、大半の人が不正義だと思わない限り、間違った慣習が続けられる。奴隷制度をはじめから悪だと思っていたのは、少数の奴隷廃止論者だけだった。「奴隷制が悪い」という考え方は今では常識だけれど、一九世紀のはじめにはまだ隠れた真実だった。今の時代に知られざる真実はないというのは、隠れた不正義が存在しないというのと同じことだ。
実際、隠れた真実はまだ数多く存在するけれど、それは飽くなき探究を続ける者の前にだけ姿を現す。科学、医療、エンジニアリング、そしてあらゆる種類のテクノロジーの分野で、できることはまだまだ多い。僕たちは目標に手の届くところまできている。それも、従来の研究分野における最先端の目標だけでなく、科学革命の熱烈な信奉者でさえ口にするのをためらうような大胆な目標に手が届くところに。僕たちは癌や痴呆や老化に伴うすべての疾病やメタボリックシンドロームを治すことができる。化石燃料をめぐる争いから世界を解放してくれるエネルギーを発見することもできる。地球上をより速く移動する手段を発明できる。あるいは、地表を出て新たなフロンティアに入植することさえできる。でも、こうした隠れた真実は、僕らが知りたいと要求し、強引にでもそこに目を向けなければ、決して学ぶことはできない。
事例
https://gyazo.com/a6e2864548ecef4e3079df70d6117a9a
ひやっしー
学者の人とか賢すぎるひとってマジでわからないことがあるんですけど、ひやっしーが本当に提供してるのは「社会問題に画期的な解決策が見つかってほしい」「その解決策はごく容易であってほしい」「自分に理解できない理論は間違ってて欲しい」「学者は間違っていて恥をかいて欲しい」などの願望の↓
満足ですから、要するに「気持ちがいい」を求めてるわけです。本当は地球温暖化や二酸化炭素にすらそんなに興味がない。というかむしろ「事実」は不快なことが多いので、気持ちよくないから彼らは嫌いです。そういう種族が人類にけっこういる
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