抽象の梯子
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一つのレベルでしか考えられない状態を「立ち止まりレベルの抽象」(dead-level abstracting)
言葉が横滑りしている
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8.富 「富」という語は極めて高いレベルの抽象で、ベッシーのほとんどすべての特性が無視されている。
7.資産 ベッシーを「資産」と言う時、さらに多くの特性が落ちている。
6.農場資産 ベッシーが「農場資産」の一つとして数えられている時は、ただそれと農場の他の全ての売れる物件とに共通の点が言及されている。
5.家畜 ベッシーが「家畜」と呼ばれる時は、それが豚、ニワトリ、ヤギ、等々と共有している特性だけを指している。
4.牡牛 「牡牛」の語は、われわれが牡牛1、牡牛2、牡牛3、……牡牛nに共通の特性を抽象したものを代表する。特定の牡牛に固有の特性は捨てられている。
3.ベッシー 「ベッシー」(牡牛)の語は、2のレベルの知覚の対象にわれわれが与えた名である。名は対象そのものではない。それはただ対象を代表し、対象の諸特性の多くに言及しない。(これより上が言語のレベル)
2.我々が知覚する牡牛は、語ではなく、経験の対象である。われわれの神経系が、過程-牡牛を形成する全体から抽象(選択)したもの。過程-牡牛の多くの特性は落ちている。※知覚のレベル
1.科学的に知られている牡牛、今日の科学の推定では、究極的には原資、電子等から成る。諸特性(○□三角で示す)はこのレベルでは無限でまた常に変化しつつある。これが過程のレベルである。※原始的過程のレベル(牡牛そのもの)
具体と抽象の多元関係
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出典
1 牡牛ベッシー
p171
コトバとそれが代表するものの関係に戻って、われわれの前に、牡牛の「ベッシー」がいるということにしよう。ベッシーは生きものであり、絶えず変化している、絶えず食物や空気を取り入れ、それを変形させ、それをふたたび排出している。その血は循環し、神経は通信を送っている。微視的に観察すれば、電子の不断の舞踊である。ベッシーを総体として知ることは決してできない。たとえある瞬間のベッシーがこうであったと言えたとしても、次の瞬間には変化しているので、われわれの叙述はもう正確ではなくなっている。ベッシーにしろ何にしろ、何かが真にこうであると完全に言い切ることは不可能である。ベッシーは静止した「客体」ではなく、力動的な過程である。
しかし、われわれの経験するベッシーもベッシーそのものではない。われわれは全体のベッシーの小部分を経験するにすぎない、その外面の明るい部分と影の部分・その動作・その輪郭・その発する音・われわれが触れた時の感覚など。そして、以前の経験から、われわれはベッシーの中に、過去に我々が「牡牛」というコトバを適用した他の動物との類似を見る。
2 抽象の過程(process of abstracting)
われわれの経験の「対象」は「物自体」("thing in itself")ではなくて、われわれの神経系(それは不完全なものだ)とその外側の何かとの相互作用(interaction)である。ベッシーは唯一無二である――宇宙内に、あらゆる点でまったくそれと同様なものは、ほかには無い。けれどわれわれは、自動的に「過程ベッシー」からそれが他の動物と、形・機能・習慣などで似ている点を抽象、すなわち選択してそれを「牡牛」として分類(classify)する。
だから、われわれが「ベッシーは牡牛である」と言う時、われわれはただ「過程ベッシー」と他の「牡牛」との類似のみに注目し、差異は無視するのである。その上、われわれは大きく飛躍をしている。力動的な「過程ベッシー」すなわち、電子的――化学的――神経的事象群の渦巻から、比較的静止した「観念」「概念」あるいは語「牡牛」へ、と。この点については読者は次頁の図表「抽象の梯子」を参照されたい。
抽象の梯子
原始的過程のレベル(牡牛そのもの)
1.科学的に知られている牡牛、今日の科学の推定では、究極的には原資、電子等から成る。諸特性(○□三角で示す)はこのレベルでは無限でまた常に変化しつつある。これが過程のレベルである。
知覚のレベル
2.我々が知覚する牡牛は、語ではなく、経験の対象である。われわれの神経系が、過程-牡牛を形成する全体から抽象(選択)したもの。過程-牡牛の多くの特性は落ちている。
これより言語のレベル
3.ベッシー 「ベッシー」(牡牛)の語は、2のレベルの知覚の対象にわれわれが与えた名である。名は対象そのものではない。それはただ対象を代表し、対象の諸特性の多くに言及しない。(これより上が言語のレベル)
4.牡牛 「牡牛」の語は、われわれが牡牛1、牡牛2、牡牛3、……牡牛nに共通の特性を抽象したものを代表する。特定の牡牛に固有の特性は捨てられている。
5.家畜 ベッシーが「家畜」と呼ばれる時は、それが豚、ニワトリ、ヤギ、等々と共有している特性だけを指している。
6.農場資産 ベッシーが「農場資産」の一つとして数えられている時は、ただそれと農場の他の全ての売れる物件とに共通の点が言及されている。
7.資産 ベッシーを「資産」と言う時、さらに多くの特性が落ちている。
8.富 「富」という語は極めて高いレベルの抽象で、ベッシーのほとんどすべての特性が無視されている。
図表の示す通り、われわれの見る「対象」は最低レベルでの抽象である。しかしそれでもなお抽象である、というのは、それは現実のベッシーである過程の諸特性を落としているから。「ベッシー」(牡牛1 cow1)という語は最低の言語的レベルの抽象である、それらはさらに諸特性を落としている――昨日のベッシーと今日のベッシー、今日のベッシーと明日のベッシーとの差異を――そしてただ類似点(similarities)だけを選んでいる。「牡牛」(cow)という語は、ベッシー(牡牛1 cow1)、デイジー(牡牛2 cow2)、ロージー(牡牛3 cow3)等々の類似性だけを選んでおり、それゆえベッシーについては「ベッシー」という語よりもさらに多くを落としている。「家畜」("livestock")という語は、ただベッシーが豚やニワトリや山羊や羊と共通に持つ特徴だけを選ぶ、すなわち抽象している。「農場資産」("farm asset")という語はただベッシーが納屋や垣根や家畜や家具や発電設備やトラクターなどと共通に持つ特徴だけを抽象している。したがってかなり高いレベルの抽象である。
われわれがここで抽象の過程に特に関心をもつことが奇妙に感じられるかもしれないが、それは言語の研究というと一般に発音・綴り・語彙・文法・文構造などのことにかぎられると想われているからで、旧態依然たる学校で作文や弁論を教える方法が、この一般に信じられている考えかた、すなわち言語を研究する方法はただ語だけに注意を向けるという考え方を生む主要な原因となっている。
けれど日常の経験でも分かる通り、言語を学ぶというのはただ語を学ぶ事だけではない、語をそれが代表する物事に正しく関連づけるという事である。野球の用語を学ぶには試合をするか見るかして、試合の進行を研究するのである。子どもが「お菓子」とか「犬」とか口で言うようになるだけでは十分でなく、それらの語を非言語的菓子や非言語的犬(物としての菓子や犬)との適正な関連で使えぬようにならなければならぬ。それでこそ言語を習いおぼえていると言えるのだ。ウェンデル・ジョンソン(Wendell Johnson)が言うように「言語の研究は、正しくは言語が何について用いられるかを学ぶことに始まる」。
ひとたびわれわれが言語が何について用いられるかに関心をもつようになると、われわれはただちに人間の神経系がいかに働くかを考えざるを得なくなる。われわれがボー(ボストン・テリヤ)もペドロ(チワーワ犬)もスナッフルズ(イギリス・ブルドック)もシェーン(アイルランド猟犬)もー―その大きさ・形・外見・動作がかなり異なった動物を――同じ「犬」という名で呼ぶ時には、われわれの神経系は明らかにそれらすべてに共通のものを抽象したのであり、それらの間の差異は一応無視しているわけである。
3.なぜ抽象しなければならないのか
この、抽象の過程、すなわち諸特性を落とすということは欠くことのできない便利な事である。もう一つ別の例で考えよう。ある寒村で四家族しか住んでいない村を仮定しよう。四つの家族はそれぞれ一軒ずつ家を持っている。Aの家屋はマガと呼ばれ、Bの家屋はビヨ、Cのはカタ、Dのはペレルと呼ばれることにする。村で普通に話しをする時にはこの呼び方で結構間に合う。ところがもう一軒、別に新しく予備の家を建てるという話しが起った。その時には、やがて建つ家の事を話す時、今までのすでにある家屋を表す四つの語では話ができない、というのが、四つの語の意味がいずれもあまりに特定的だからである。何か一般的な用語(general term)を探さなければならない。それはもっと高いレベルの抽象で、その意味は「マガ、ビヨ、カタ、ペレルに共通のある種の特性を持つ物で、しかもAのでも、B、C、Dのでもない物」というようなことである。これをいちいち言うのはわずらわしいから何か略語(abbreviation)を発明しなければならない。そこでイエという音を選ぶ。このような必要からコトバが生れる――それは一種の速記である。新しい抽象の発明は一つの大きな前進である。それは話し合いを可能にする――この場合は、第五の家についての話し合いばかりではなく、やがて将来建てられるあらゆる家屋や、旅行や夢で見るあらゆる家屋についての話し合いを。