失敗は成功のもと
「失敗をたくさんして学ぼう」という組織で、失敗はどのように語られるか
「失敗をたくさんして学ぼう」という組織やチームが増えてきている。では、評価面談で自分の失敗の話をどれくらいしたいだろう? どれくらいできているだろう?
もしそのような自分の評価の是非に関わる場で、自分の失敗の話を避けているのであれば、「失敗をたくさんしよう」という言葉は、掲げるだけで実行はされていないかもしれない。
自分と無関係な失敗を語る
巧妙な場合、自分の評価には無関係なことを取りあげて、それを失敗の話にしているかもしれない。実態は「(自分がチャレンジをして)失敗をたくさんして学ぼう」ではなく「自分の評判が傷つかない他人の失敗を見つけて自分の教訓にする話をしよう」になってしまっていないか。
自分の評判が傷つかず、反対に自分の評判をあげるようなレトリックの例
・「○○チームでトラブルが起きたとき、もっと積極的に助けに入ればよかったです」
自分がしでかした失敗ではなく、しかも他人を助けられる協調性があるというアピールになっている。もし意図的な振る舞いだとしたら評価構造のハックだ。
失敗から学んでいるのではなく、その文化の社会評価構造をハックしていることになっていないか注意する。自分の評判が下がりかねない失態を話していないのであれば、レトリックを話しているのかもしれない。
成功してから失敗を語る
カンファレンスで失敗を語るプレゼンテーションの多くは、最終的にはうまくいっている。なんなら失敗があったからこそ重要なことに気づけて成功の糧になったという、失敗をストーリーをドラマティックにするためのスパイスになっていることが多い。それは本当に失敗にフォーカスを当てているとはいえない。
これも結局は自分の評判を上げるためのスパイスにしている。しかしより重要なポイントは失敗を語るタイミングだ。
まさに現在進行形で失敗しているタイミングでは語られず、成功してから失敗を語るというものになっている。
もし、その組織で「失敗してもいいが、失敗はチャラにならなければならない」「失敗と見なされないように、うまくいっていないときは隠さなければならない」というプレッシャーがあるとしたら要注意。
許容できる失敗を語る
現在進行形の失敗が語られるときも、巧妙に調整されていることが多い。それは失敗による悪影響が許容できる程度のことが語られる。
筋肉痛やポジティブな結果の過程に起こる痛みや、風邪といった回復が見込めることは語られるが、回復不能な重症なことは密室で少数の人にだけ語られる。横領といった士気や、外聞に関わることは避けられる。
「失敗から学ぶ」というとき、自分の現在起きている失敗から話を切り出す必要がある。
table:語られる失敗の類型
好ましい結末が見込めない 好ましい結末が見込める
許容できる 語られる機会は選択される 積極的に語られる
許容できない 語られる機会は選択される 語るための正統性を持った立場の人がここぞという場面で語る
table:語られる失敗の類型
現在進行形 事態が収拾している
評判を上げる
評判を落とす
上の行は黙っていても誰かが話しやすい。苦労話を装った自慢話だから。
組織の健全性の点からみると、下の行のほうがはるかに重要。下の話をする人が馬鹿を見て、上の話をする人がちやほやされる組織では、語られる失敗は選択されるようになる。
同業からみて、「やらかしたな」とみられるような失敗をしてしてまったとき、自分から率先して失敗から学ぶために語ることができるか。
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失敗という、ある原因が特定の結果を引き起こすという理解を用いて、問題を解決したり、それにお金を払ってくれる人が見つかれば成功まで導いたことにはなる。しかし、そのようなエピソードは生存バイアスになりやすい。
エジソン「1000のうまくいかない方法を見つけただけだ」
チキンレースである。その後GEを追い出されて、寂しい余生を過ごした。 安易に諦めないことも必要だが、やり過ぎは禁物。