因果推論の効果
因果関係説明がもたらす好影響
影響を説明してみることで、自らの理解度に対する評価が下がるだけでなく、意見も軟化することがわかった。説明後の平均値が中間点に寄ったということは、被験者全体で考えると両極端な意見が減ったことを意味する。問題を説明してみることで、人々の意見が収斂したのだ。
この結果には、直観に反する部分もある。人々に問題について考えてもらうことで、どれほど理解していないかがわかり、結果的に意見が軟化するというのが一つの解釈だ。しかし他の研究では、被験者に自らの意見について考えてもらったところ、さらに立場が強固になった例もある( 8)。おそらく集団で議論させると、意見が極端化するのと同じ理由からだろう。通常ある問題についての自らの立場を考えろと言われると、なぜそう思うのかを振り返る。そうするとすでに持っている意見を支持するような論拠が浮かんでくるものだ。その政策がどのような良い結果や悪い結果に結びつくかといった因果関係を考えることはない。
この二つはまったく異なる思考法だ。通常、政策について考えたり議論したりするとき、私たちは因果関係を説明しようとはしない。政策論議の内容は、なぜ自分が特定の考えを支持するのか、自分と同じ意見なのは誰か、政策のどの部分が自分の価値観と一致するのか、それについて今日ニュースでどんな話を聞いたかといったことに終始する。
私たちの実験では、被験者に政策の影響を因果的に説明するという、あまりなじみのない難しい作業を求めた。それには政策の細かな部分に目を向け、それが複雑な世界とどうかかわりあうかを見きわめることが必要になる。
新たな法律が施行され、明日からあなたの住む地域では一人一日あたり四〇リットルしか水を使ってはいけないことになるとしよう。短期的にはどのような影響が出るだろうか。長期的にはどうか。それによって不動産価格にどんな影響が出るのか。近隣の不動産価格には? 衛生レベルに変化は生じるのか。いずれも難しい問いだ。それに答える唯一の方法は、別の世界を想像し(水の使用量がこれまでより大幅に少ない世界)、それはどんなものかを推論することだ。自分の優先順位はどんなものかを考えなければならないが(まず身体を洗うか、衣服を洗うか、それとも皿を洗うか?)、自分のことだけを考えていても問いの答えは出てこない。他の人々はどんな反応を示し、何が変わるかを考える必要がある。
われわれはもう一つ実験を行った。実験の内容はほぼ同じだったが、被験者に因果的説明の代わりに、今の意見を支持する理由を述べてもらった。政策に対してなぜそのような意見を持つのか、具体的に説明するよう求めた。つまり自分の関心から一歩踏み出て政策そのものを考えるのではなく、自分の目線で政策について考えることを明確に求めたのだ。人々が通常、政策について考えるときと同じことをしてもらったわけだ。被験者は最初の実験と同じ質問に答えた。今の意見を支持する理由を説明する前と後に、その問題に対する理解度と自らの立場を評価してもらった。
理由の説明は、因果的説明とはまったく異なる反応につながった。被験者の自らの理解度に対する評価はまったく低下しなかった。また政策に対する立場も一切、軟化しなかった。因果的説明をした場合と異なり、理由の説明は被験者の知識の錯覚に影響を及ぼさず、政策に対する信念の強さは説明前と変わらなかった。理由を見つけるのはとても簡単だ。キャップ・アンド・トレード制度は環境保護に役立つという考えを思い出すだけで、今の立場を正当化できる。キャップ・アンド・トレードに対する自らの理解がどれほど浅いものかを改めて考えなくても、賛成の立場をとることはできる。対照的に、因果的説明を求められると、自分の知識不足と向き合わざるを得なくなる。
これは因果的説明に特別な効果があることを示唆する。問題について考えさせることで、人々の意見を穏やかにすることはできる。しかしその場合、いつも政治問題について考えるときと同じような考え方をさせてはいけない。自分が自分の意見を支持する理由を考えるだけでは、すでに抱いている信念が強化されるだけだ。必要なのは、政策そのものを考えること、具体的にどのような政策を実施したいのか、その政策の直接的影響はどのようなものか、その影響の影響はどのようなものかを考えることである。つまり、ふだん行っている以上に物事の仕組みについて深く考える必要がある。
因果的説明の難点
自らの錯覚を突き付けられて、腹を立てる人もいる。本人がよくわかっていない政策を説明させることで、相手との関係にヒビが入ることを、われわれは身をもって学んだ。説明を求めた相手が、その問題についてそれ以上議論したがらなくなることも多かった(われわれと話すこと自体を嫌がることも多かった)。
知識の錯覚を打ち砕くことは人々の好奇心を刺激し、そのトピックについて新たな情報を知りたいと思わせるのではないか、と期待していた。だが実際にはそうではなかった。むしろ自分が間違っていたことがわかると、新たな情報を求めることに消極的になった( 15)。因果的説明は錯覚を打ち砕く効果的な方法だが、人は自分の錯覚が打ち砕かれるのを好まない。
因果的説明が効果をもたらさないケース
論文
(7), P. M. Fernbach, T. Rogers, C. Fox, and S. A. Sloman (2013). “Political Extremism Is Supported by an Illusion of Understanding.”
出典