道徳的思考停止
Moral Education
道徳
人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力や適法性を伴うものでなく、個人の内面的な原理。
広辞苑
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心理学者のジョナサン・ハイトは、道徳的判断が合理的考察に基づいて下されることはめったになく、たいてい直観や感情から生じていると指摘する( 9)。その最も強力な証拠としてハイトが挙げるのが「道徳的思考停止」だ。それを証明するため、ハイトは次のようなシナリオを提示する(注意:シナリオは意図的に不快感を喚起する内容になっている)。
ジュリーとマークは姉弟である。大学の夏休みに一緒にフランスを旅行していたある晩、海辺のコテージで二人だけだったとき、セックスをしてみたらおもしろいかもしれないと考えた。少なくとも、どちらにとってもそれまでにない経験になるはずだ。ジュリーはもともと避妊用ピルを飲んでいたが、マークも安全のためコンドームを使った。どちらもセックスを楽しんだが、もう二度としないことにした。その晩のことは特別な秘密にする。そうすることで二人の絆はさらに深まった
これを読んだ人は、たいてい二つの反応を示す。まず嫌悪感。続いてジュリーとマークの行動は道徳的に許されないことだと非難する。ここまでは特段驚くような話ではないだろう。近親相姦をタブー視する社会は多い。興味深いのは、たいていの人は自分の反応を正当化する理由を言えないことだ。言を左右にして、近親相姦が誤りであること、あるいはそれがタブーであるという事実を指摘したりする。しかしそれは自分の道徳的反応を、言い換えているだけだ。「この行為は誤っている」という以上は何も言っていないに等しい。
ハイトはジュリーとマークの行為が引き起こしうるネガティブな結果をシナリオから周到に排除することで、道徳的非難の根拠をなくしている。近親相姦によって先天的障害を持つ子供が生まれる可能性が高くなるので、姉弟は性交をすべきではないと思うかもしれないが、ふたりは二種類の避妊具を使っているので、そうした批判は当たらない。そんなことをすれば姉弟関係が壊れるという批判も、実際にはそうならなかった。姉弟を取り巻く人々との関係が崩れるという批判も、誰にも教えなければ関係ない。それにもかかわらず、たいていの人は強い拒否反応を示し、何を言われても態度を変えない。理由などどうでもいいのだ。
価値感に基づいた強い立場を表明する場合、因果的説明は判断の軟化に繋がらなかった
人々が価値観に基づいてきわめて強い立場を表明する傾向のある、二つの問題について尋ねた。一つは中絶に関する質問(妊娠初期の三カ月以内であれば中絶を認めるべきか)、もう一つは自殺幇助に関する質問(医師は極度の苦しみを経験している患者に対して、自殺の支援および許可を与えられるべきか)だ。どちらについても、説明深度の錯覚は見られなかった。因果的説明の前と後で、被験者の自らの理解度に対する評価は変わらなかったのである。また立場が軟化することも一切なかった。因果的説明の後でも、被験者の立場は説明前と同じように極端なものであった。
つまり因果的説明は人々の意見を穏やかにするのに役立つ簡単かつ効果的な方法である、というわれわれの主張は、特定の問題にしか当てはまらないということだ。具体的には、価値観に基づいて意見が決まる問題ではなく、結果に基づいて意見が決まる問題にしか当てはまらない。
それでも対象となる問題は多い。ほとんどの意見は、結果を踏まえて決まる。社会が原子力発電に取り組むことの是非から教育、医療に至るまで、さまざまな問題について、たいていの人は最も効果の大きい方法を支持する。
しかし問題提起のあり方が、必ずしもそうなってはいない。特定の政治的立場を推進する人々が、たいていの人が結果に基づいて判断する問題を、価値観の問題であるかのように見せようとすることがよくある。そうすることで自分たちの無知を隠したり、人々が中庸な立場をとることや妥協点を見いだすことを妨げようとする。最たる例が医療制度だ。国民の多くは、最高の医療をできるだけ多くの人にできるだけ手頃な価格で届けることしか望んでいない。社会として議論すべきは、それをいかにして実現するかだ。しかしそのような議論は専門的で退屈だ。このため政治家や利益団体は、これを神聖な価値観の問題にすり替えようとする。
論文
(9), J. Haidt (2001). “The Emotional Dog and Its Rational Tail: A Social Intuitionist Approach to Moral Judgment.
出典