仮説
知識の相互参照から構造・機能を辿り、物事の理解の統合を試みること
薄い仮説
仮説が薄くても構わないのは、業界セオリーを知っているから
良い仮説
より大きく、より広いコンテキストを包含するアイデア
世の中にある大きさジレンマ
解くことができるジレンマ
コンテキストを溶かして、イベントをそもそもなくしてしまう
より条件を厳しくする
あるシュのコンサルタントの仕事をなくしてしまう
統計
仮説を無効とする仮説
仮説
仮説を立てる
仮説を立てる作業は、科学の方法におけるあらゆるカテゴリーのなかで最も不可思議なものである。それがどこから生じてくるのかまったく分からない。どこかに腰をおろして自分の仕事に精神を集中させていると、それまで把握できなかったことが突然閃くのである。
だがこの仮説は検証されるまでは真理ではない。また仮説はさまざまな検証を経て生み出されるものではないから、それはどこか別のところに源を発している。
アインシュタインの言葉
人はみずから、自分に最もふさわしい仕方で、簡潔にして判明な宇宙像を形成しようとする。そして、この自分自身の宇宙をある程度まで経験の世界に置き換え、それを克服しようとする……またこの宇宙とその体系を自己の感情生活の軸とするのは、個人的経験の小さな枠のなかでは容易に見いだすことのできない平和と静謐を得るためである……なすべき最高の仕事は……確かな推理によってその宇宙を構築しうる普遍的な基本法則に到達することである。これらの法則に論理的な道は存在しない。唯一、共感という経験的理解に基づく直観だけが、それに到達できる。
直感? 共感? 科学の知識を表現するには奇妙な言葉だ。
アインシュタインほどの科学者でなければ、「いや、科学の知識の源は 自然 である。 自然 が仮説を提供してくれるのだ」と言ったかもしれない。しかし、アインシュタインはそれが自然の産物ではないことをよく知っていた。自然が提供してくれるのは、実験データだけである。
そこでまた一人、「それでは、 人間 こそが仮説の生みの親である」と言う人もいるであろう。だがアインシュタインはこれも否定した。そしてこう言った。「現実に科学の問題を考察したことがある人ならば、事実上現象世界のみが理論体系を決定するということを、誰一人否定しない。ただし現象と理論的諸原理との間には、論理的な架け橋がまったく存在しないことは事実である」
パイドロスが科学と決別したのは、実験を度重ねた結果として、仮説の本質的存在に興味を抱くようになったときのことである。実験室での作業を進めていくうちに、彼は、科学的作業のなかでも最も難しい部分と目されている仮説を立てるという作業が、いつでもきわめて容易であることに気がついたのである。
無限に増える仮説
また形式上あらゆることを正確かつ判明に書きとめる行為が、仮説を生む引き金となっているようにも思われた。仮説第一号を実験的方法によって検証していたとき、彼の心には、別の仮説が洪水のごとく浮かんできた。だから当然それらの仮説も検証してみた。するとさらに多くの仮説が浮かんできた。こうして仮説、検証と繰り返していくうちに、仮説の数はどんどん増えていった。
そしてついに痛いほど明白な事実が明らかになった。さまざまな仮説を検証しながら、いくら消去確認の作業を続けても、その数はいっこうに減少しないという事実である。やればやるほどその数は 増加 の一途をたどったのである。
もし科学の方法の目的が、多数の仮説群のなかから一つの真理を選択することであり、また仮説の数が実験的方法によって処理できる以上の速さで増加するとすれば、明らかに、仮説の検証はすべて不可能となる。だとすれば、いかなる実験の結果も決定性を欠き、科学の方法はすべて、いつになっても確実な知識体系を樹立することはできない。
真理は時間の関数
科学的真理は、永続性を持つ宗教の教義とは違い、ほかの現象同様、研究の対象となりうる時間量をもった一つの存在物であっであった。
そこでパイドロスは科学的真理を研究してみた。だがそこにある時間的条件という明白な理由によって、彼はなおさら動揺を深めることになった。科学的真理の寿命は、まるで科学における努力量の逆関数であるかのようであった。だから二十世紀の科学的真理は、前世紀のそれに比べてはるかに寿命が短いように見える。これは現在の科学活動が前よりもはるかに活発だからである。もし次の世紀に科学活動が十倍に増大するとしたら、いかなる科学的真理の平均的余命もおそらく現在の十分の一に落ちこむことになるだろう。現存する真理の寿命を縮めているものは、それに取って代わるために提起された仮説の量にある。だから仮説が多ければ多いほど、真理の寿命は短いことになる。またこの二、三十年の間、仮説の数を増大させているのは科学的な方法以外の何ものでもないようだ。見れば見るほど、多くの仮説が見えてくる。多数のなかから一つの真理を選ぶ代わりに、逆に その数を増大させている にすぎない。論理的に解釈すれば、科学的な方法を適用することによってどんなに努力を重ねてみても、現実にはまったく不変の真理に向かっていないことになる。それどころか 遠ざかっている! 科学的な方法を適用することが、かえって不変の真理を変化させる原因をつくっているのだ!
科学の方法の目的は、多数の仮説のなかからただ一つの真理を選び抜くことである。これこそ科学が何よりも取り組むべき目標のはずである。だが歴史を振り返ってみると、これまで科学はまったく正反対のことをやってきた。さまざまな事実、情報、理論、仮説を相乗的に掛け合わせることによって、当の科学は、絶対的真理のもとを離れ、多様で不明瞭な相対的真理へと人類を導いてきた。現代社会に混沌を生み、合理的知識によって排除するはずの思想や価値を不確かで曖昧なものにしてしまったのは、科学そのものにほかならない。その昔パイドロスが実験室の孤独のなかで見たものが、いまではテクノロジーの世界の至るところに見受けられる。科学が反科学──混沌──を生み出したのである。
科学とテクノロジーが人間の精神に押しつける混沌とした変化に、数多くのロマン的人間の心は動揺をきたしていた。